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1オルコット大佐来日まで~白人仏教徒からの手紙|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

キリスト教の大攻勢

 ……入米の神学博士新島先生帰朝後、西京は相國寺門前二本松の薩摩島津邸の趾へ同志社を立て、基督教を以て青年を教育すると同時に、劇場等を借り受けしきりに偶像教を排撃するとて仏教の教義は勿論、仏僧の堕落を痛烈に駁撃した。京都は仏教各宗の本山所在地、全国末寺の手前撲たれしまゝに凹んでは居られず、それこそ坊主頭に捻り鉢巻きで反駁演説を試みたが、先方には素人受けのする唯一の言前がある。それはこうである。
『今日の日本は欧米先進国に学びつつある時代で、兵制に、政治に、経済に、法律に、化学に、理学に、数学に、天文に、地理に、植物に、動物に、皆欧米の指導に依る。海には汽船、陸には汽車、空には風船、天子も洋服を召さるるにあらずや、かく全てを日本に教ゆる程の利口な欧米人が、単に宗教だけ日本に劣るものを有するの理あらんや』と。
 そこで仏徒の方も考えた、この理屈を破るには欧米人にして仏教を信じる者を発見し、その者を日本へ連れて来れば議論もヘチマもないのであると。しかし欧米人で仏教を取り調べた者はあるが、信じる者と云うのは容易に見付からぬ。

「四十年前の印度旅行」

本文でもまた、野口復堂の『教談』から口火を切らせてもらった。さて、明治維新の大混乱もひと段落した明治時代の中頃である。切支丹の禁令から数百年ぶりに日本国内での信教の自由を獲得したキリスト教徒は、西欧化の時流にも乗じて、日本各地で活発な布教活動を展開していた。明治初頭の廃仏毀釈による打撃からようやく立ち直りつつあった仏教勢力もこれに対抗の動きを見せ、両者の間で、宗教論争が激しく闘わされていた。復堂先生の語ったごとく、日本仏教の本家本元というべき京都でも、新島襄(一八四三〜一八九〇)による同志社英学校の開校(明治八年)を受けキリスト教宣教師たちが市内各所で演説を行い、仏教を低劣な「偶像教」と決めつけて攻撃した。

「阿弥陀はなんです。木です、石です、紙です、有難くありまへん。」欧米人宣教師のまずい日本語の後を引き受け、日本人宣教師は、文明開化の威光を笠に熱弁を振るう。折しも明治十七(一八八四)年には同志社の生徒に大リバイバル(信仰が集団で覚醒すること。キリスト教徒は聖霊の働きによるものと解釈する)が沸き起こり、敵方の志気は上がるばかり。悔しさに歯ぎしりした仏教徒側では、野口復堂によるとこんな珍妙な対抗策まで編み出したという。

 然らば西洋人にして仏教を信ずる者をお眼にかけんと。税関の官吏がまだ定役衆と呼ばれて、裃を着けて居る時代に、神戸で水先案内を職として居って年中ウヰスキー浸しのケアプラン・フオンデスを引っ張りだし、比叡山に受戒せしめ。フロツクコートに袈裟を掛けさせ、壇上から「ナナイヤイ、ヘナハナシヤケドモ、ヤマボケノ、メノ、ヘトツダニ、ナケゾカナシキ、ウタアリマスウタアリマス」と言わしめたところで一向利き目が無い。

「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」『現代仏教』一〇六号

それはそうだろう……(後述するが、このフォンデスという男は実在する。日本で仏教の薫陶を受けた彼は、帰国後イギリスにて日本仏教のPRに携わった)。このような仏教徒の苦悶に、一筋の光明を与えた人物がいた。ヘンリー・スティール・オルコットという、奇特なアメリカ人である。復堂曰く、

「……ところが恰もよしこの時印度より日本仏僧の変り者水谷仁海大菩薩へ、英文仏教問答と云う本を送って来た。著者はヘンリィ・スチール・オルコットと云う南北戦争参加の古強者、今は後備陸軍大佐であって熱心な仏教信者と云う事が知れたので、早速当時米国より帰朝したての今立吐醉先生に翻訳して貰うと同時に、日本へ右大佐を招待する事と取極め交渉を開始した。」(「四十年前の印度旅行」)

白人仏教徒からの手紙

史実上のいきさつは彼の能弁ほどにスラスラとは運ばなかった。上に名前の出ている水谷仁海はその当時、中西牛郎・北畠道龍らとともに「仏教革新」のアジテーターとして知られた浄土真宗の僧侶である。独自の見識というよりは大言壮語と奇行で知られる名物坊主であった。明治二十一年二月十七日付の『国民新聞』に「大菩薩出現」と題したおちょくり記事が出ている。曰く、

 水谷師なる一僧、四輪車に跨かり、水谷仁海大菩薩の旗を立て、東京の市中を馳回り、路傍演説を為し、頻りに佛教改良の事をぞ主張しける……改良又改良、佛法の改良は如何にして行はるる可きや、佛法は猶ほ古き錦の如し、其破損用ゆ可からざるに至て、金帛木綿を以て之を補綴す、果して効能ある可きや否や……

『国民新聞』明治二十一年二月十七日

明治十六(一八八三)年初頭。まずその水谷仁海の許に、インド・マドラスの神智学協会本部からオルコット大佐直々の書簡が届けられた。これは前年の明治十五年十一月一日、水谷がオルコット宛てに出した書簡への返信であった。

……拙著『仏教徒教理問答集』の最新版を一部、差し上げます。本書を翻訳することが、社会に有益と認められるのであれば、翻訳の特権を貴方に御譲します。本書の開巻にあるとおり、この問答は現在セイロン島で一般に信仰されている純粋の佛教大意であることは、当地のスマンガラ大長老*1の保証するところです。

オルコット書簡

こんな口上に添えて、封筒にはオルコットの著書、英文『仏教徒教理問答集ザ・ブッディスト・カテキズム(The Buddhist Catechism)』*2が同封されていた。またオルコットは書簡で、同書の翻訳権を水谷に託すとともに、その利益の幾ばくかを仏教教育振興のためスマンガラ大長老まで送ってほしいとも記していた。彼は前年の十月、英国から帰国途中セイロンに寄港し、神智学協会分会の会議に出席してスマンガラ大長老らとも会見した笠原研寿(後述)にも触れている。そして、

 私は元アメリカ人で、以前は陸軍に奉職していました。しかるに仏教徒となってより以来、当地(アディヤール)に在住を定め、終焉まで我が一身もってアジア人民の公益に供したく決心した次第。私が日本仏教の役に立てるなら、何なりと申し出て戴いても、私個人は一円の報酬も願いません。
と記し、日本の仏教復興への協力をも申し出ていた*3。

『佛教問答』の翻訳出版

『仏教徒教理問答集』は一八八一年七月、オルコット大佐がセイロン(現スリランカ)でものした簡潔な仏教入門書だ。詳しくは後述するが、アメリカで神智学協会を設立したオルコットはインドを経て一八八〇年、スリランカに上陸した。植民地体制下で続けられていたキリスト教会の布教活動に対抗して、現地のテーラワーダ仏教復興運動の指揮をとり、「白い仏教徒」として南アジアで救世主のごとく尊敬を集めていた。

オルコットはクリスチャンがセイロン島内に大量にばらまいたキリスト教布教用の教理問答集(カテキズム)に目をつけ、その仏教版を自ら執筆したのである。これが大いにウケた。同書は、

〝1.Question. Of what religion are you?
 Answer. The Buddhist.〟
(一、質問「あなたは何という宗教の人?」
 答え「仏教徒です。」)

というやり取りから始まる三百八十一の問答でもって構成されている。当時スリランカ仏教界の指導者的立場にあったスマンガラ大長老のお墨付きを得て、シンハラ語をはじめ二十カ国以上で翻訳された。現在でもスリランカの学校で英語テキストとして利用されているというから、なんともすごいロングセラーである。

さてこちらに話を戻すと、正確な時期は不明だがおそらく明治十八(一八八五)年頃、水谷は熊本にて赤松連城(一八四一〜一九一九 浄土真宗西本願寺派。宗門の近代的な改革を行い、後進の育成にも努めた)と会見し、その席でオルコットの書簡と『仏教徒教理問答集』を差し出した。一読した赤松は大いに感じるところあって、京都中学校校長の今立吐醉氏に依頼して本書を翻訳し、仏書出版会より出版することに決した。

『佛教問答』なる邦題で同書の翻訳が世に出たのは明治十九(一八八六)年四月である}*4。和綴じで全四十五ページ。知恩院法主が仰々しく題辞を寄せ、赤松連城による緒言、オルコットから水谷への書簡、訳者の凡例まで添えられた本格的な翻訳書だ。この『佛教問答』、オルコットが来日した明治二十二年から翌年にかけて数種類の異訳本が出されているから、日本でもかなり広範に読まれたことがうかがえる。

オルコット著『佛教問答』

しかし……水谷仁海は明治十六年にはオルコットから『仏教徒教理問答集』を入手していたという。ならば翻訳に着手するまでになぜ二年ものタイムラグがあったのか、不明瞭な点は残る。しかし明治十年代後半から二十年代初頭にかけてのこの時期は、仏教とキリスト教双方にとって、歴史的なターニングポイントだった。研究者の曰く、

……廃仏毀釈から欧化主義の時代を通じて非勢にあった仏教は、国粋主義の勃興を挺として、井上円了の『真理金針』(十九年刊)を先頭に、いわゆる破邪顕正運動という体勢をとりながら立ち直りはじめた。これに対してキリスト教では、外部的には、内村鑑三らの不敬事件から「教育と宗教の衝突」事件にかけての国粋主義陣営からの攻撃、内部的には、チュービンゲン学派やユニテリアン等の自由神学の渡来によって、小崎弘道のいわゆる「信仰試練の時期」を迎え、嘗ては聴衆の群がり寄せた教会も、門前雀羅を張る有様となったのである。

『日本近代仏教史研究』吉田久一、一九五九年

吉田氏も指摘しているように、この時期、日本仏教は国粋主義の立場に擦り寄って反欧化主義・反キリスト教を訴える「破邪顕正運動」を展開し、体制の建て直しを図っていた。オルコットの著作が日本で紹介されたことも、その流れに位置づける必要があるだろう。しかし、「欧米人で仏教を取り調べた者はあるが、信じる者と云うのは容易に見付からぬ。」ことに頭を悩ませていた日本仏教徒にとって、白人仏教徒であるオルコットの存在は「仏教の優位性」をキリスト教徒に誇示する格好のサンプルだったのだ。

オルコット大佐のベストセラー『仏教徒教理問答集』の日本語翻訳出版は、彼を日本に招く運動に火をつける結果となった。しかしそもそもオルコット大佐とは何者なのか? 詳しい解説は次々章にて申し上げるとして、お次はいよいよ野口復堂先生に御登場いただくことになる。


電書版追記

本文中で、オルコットとの書簡のやり取りから『仏教徒教理問答集』を送られ同書を赤松連城に紹介して翻訳出版のきっかけを作った人物を水谷仁海としてきた。ソースは野口復堂の回想録である。しかしこれは事実誤認で、『仏教徒教理問答集』翻訳出版に関わったのは水谷は水谷でも水谷涼然という全くの別人だったことが中西直樹先生の研究発表(龍谷大学アジア仏教文化研究センター『THE BIJOU OF ASIA(亜細亜之宝珠)』研究会第3回、二〇一六年七月二十五日)で明らかになった。本書では同時代資料を精査せぬまま、野口復堂の教談をすっかり真に受けていたことになる。電書化の機会に追記の形で訂正しておきたい。水谷涼然の経歴については、本願寺派(西本願寺)の関係者であったこと以外は判明しておらず、解明が待たれる。この件について中西直樹先生、またご教示くださった吉永進一先生に感謝申し上げます。

note版追記(2022年5月1日)

本書の執筆にあたって多くの序言と支援を頂いた宗教研究者の吉永進一先生が去る2022年3月31日に他界されました。以下のリンクは「キリスト教新聞」に掲載された吉永先生唯一の遺作にして初の単著『神智学と仏教』書評です。吉永先生の問題意識と知見の広大さを概観できると思います。この本の登場人物の一人になれたことが、僕の生まれ甲斐の一つ。吉永先生の学恩に報いることからはとうの昔に降りてしまった身ですが、せめて知恩の人であり続けるよう努めたいと思います。


註釈

*1 ヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ大長老(Ven. Hikkaduwe Sri Sumangala Nayaka Thera)は一八二七年一月二十日、スリランカのヒッカドゥワ村にMr. Don Johanis Abeyweera Gunawardhanaを父として生まれる。幼名はNiculasといった。その早熟ぶりを心配した母親によって五歳で寺院に預けられ、十二歳で沙弥となる。勉学において年長者をはるかにしのぐ、聡明な子供であった。サンスクリット学者、インド出身のバラモン僧らに師事して長足の進歩を遂げる。二十一歳のとき、キャンディで具足戒を受けて比丘となる。学識の深さ、博識さ、サンスクリット語、パーリ語のすぐれた読解力で試験官たちを驚かせた。やがて故郷の村に帰り、出家比丘の教師に任命されて十二年を過ごす。後に南西部の都市ゴールで六年間高位の僧職に就いた後、スリー・パーダ(アダムス・ピーク)山上寺院の管長に選任される。そしてゴール地区の管長にも選任され、セイロン比丘任用試験委員長も歴任。一八七三年コロンボのコタヘーナ地区に移り、その後まもなくマリガカンダに移って、出家僧侶のためにウィドヨーダヤ学院を創設し、亡くなるまで学長を務めた。マックス・ミューラー、リス・デヴィス、エドウィン・アーノルド、モニエル・ウィルアムなど西欧の仏教研究者と交友があった。神智学との最初の接触は一八八〇年にブラヴァツキー夫人とオルコット大佐が初めてセイロンを訪問したときである。スマンガラ大長老はスリランカのみならず南方仏教全体を代表する高僧であった。オルコットの書簡にあるように、彼が神智学協会の名誉副会長のひとりとなり『仏教問答』にお墨付きを与えたことは、スリランカにおけるオルコットの地位に揺るぎない信頼感を与えていた。一九一一年四月三十日逝去。

オルコット大佐とスマンガラ大長老

*2 現在入手できるのは、〝The Buddhist catechism -according to the can on of the southern church〟by Henry S.Olcott, The Theosophical Publishing House, adyar, India, 1947

*3 『佛教問答』オルコットから水谷への書簡より

*4 『佛教問答』(米国人エッチ、エス、ヲルコット氏著 日本京都中學校長今立吐醉譯 佛書出版會 明治十九年四月)
ところで、中村元氏の次のような指摘は注目に値する。
「……原(坦山)は明治二十年(一八八七)二月文科大学において「印度哲学要項」と題して演説し「ヲルコット氏曰ク、レリジョン(宗教)ト云語は仏教ニ用ユルコト妥当ナラス、仏教ハ寧ロ道義哲学ト称スヘキナリト、余ハ直チニ心性哲学ト云フヲ適当トス、本校ニ於テ印度哲学ト改ムルハ尤も当レリ」と述べている。(『哲学雑誌』一冊、三号、明治二十年、一〇五頁)驚くべし、一八七五年にニューヨークに設立され、インド、セイロンなどにおける仏教復興運動の原動力となった神智協会(The Theosophy Society)の創設者ヘンリ・スティール・オルコット(Henry Steele Olcott)の影響を、原坦山は受けていた……」(『キリスト教か仏教か 歴史の証言』監修のことばより)。
ここで名前の出た原坦山(一八一九〜一八九二)は曹洞宗に属した禅僧。一時期は宗門と紛争を起こして浅草で易者をやっていたという変わり者だが、明治十二年に東京帝国大学に印度哲学科が開設されるや初代講師として招かれた。禅仏教の生理学的心理学による再解釈を行った、仏教「近代化」の先駆的人物である。担山の特異な禅学については、吉永進一「原担山の心理学的禅:その思想と歴史的影響」(『人体科学』15-(2):5-14,2006)に詳しい。担山がオルコットの説として引いている「仏教ハ寧ロ道義哲学ト称スヘキナリ」の言葉は『仏教徒教理問答集』の冒頭の問い、
〝1.Question. Of what religion are you?
Answer. The Buddhist.〟
の注釈として記された一文
〝The word religion is most inappropriate to apply to Buddhism which is not a religion, but a moral philosophy, as I have shown later on.〟
に依っているのは明らかだ。前述の中村氏はオルコットの仏教復興運動への関わりは、パーナドゥラ論戦におけるグナーナンダの活躍に刺激されたものと指摘したうえでこう述べる。「……廃仏毀釈ののちの日本における仏教復興というものは、草の根から芽がひとりでに生えて出てくるように仏教が復興したのではない。スリランカにおけるグナーナンダ師の発した起動力がついに原坦山をして行動を起こさせたのである。」(同右)
ここで言及されたパーナドゥラ論戦については、追って詳しく触れたいと思う。蛇足気味だがもうひとつ。明治の中頃に大道長安(一八四三〜一九〇八)という禅僧がいた。初め曹洞宗に属していたが明治十九年に僧籍を離脱して『救世教』を始める。彼は観音信仰を軸とした在家仏教を説いて知識人階級にも多くの信者を集めた。戦前の老舗出版社「博文館」館主大橋新太郎夫妻も信者であった。
この長安の著書『救世教』の冒頭、「●問ふ救世教は何を以て本尊とし標準となされますや ○答ふ本体の観世音菩薩を本尊とし奉ります……」と書出されているあたり、明らかにオルコットの『仏教教理問答』を読んだ影響がうかがえる。同書には、「彼の露国の「ブラヷチキー」氏が(婦人)欧州に仏教を弘め、米国の「オルゴット」氏が神智協会を設けて、仏日を輝すが如きは、誠に日本男児の慚る所にして……」という記述もある。
明治の半ば日本に届けられた「白人仏教徒」のメッセージは、その当時、仏教の改革なり改良なりという事業を志していた人々の意識に濃淡の差はあれ、大きな影を落としていたのだ。

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