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2日本仏教と明治維新~廃仏毀釈からの手探りの復興|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

近世仏教の姿

……と思ったがその前に、ここで、日本仏教が当時置かれていた状況について少し振り返ってみたい。日本仏教の歴史は、欽明天皇十三(西暦五五二、一説に五三八)年、百済の聖明王の使者により仏像と経典が初めて持ち込まれた史実をもってスタートした。以来、千数百年の長きにわたって、仏陀の教説は日本独自の発達と粉飾を遂げ、世界史上に誇り得るさまざまな文化・思想を生み出してきた。しかし「日本仏教史」として語られる範囲に、明治以降の近代史が含まれることは稀だ。ひとつには近代に先立つ江戸時代の仏教が、当時の知識人から見ると堕落した魅力の薄い存在だったことが挙げられるだろう。

「……仏教は中世より弊習を生じ、政治家の機関となり、その依頼を甘受し、相頼って以てその宗派の隆盛を謀らんとし、自家独立の志操なく、教理を研がず、仏教の本旨たる布教伝道に奮勵せずして常に装飾せる殿堂楼閣に安居し、身に綾羅絹繍をまとい、口に珍味を食い、品行不正、貴族然として貴重の歳月を経過することを得る……葬祭読経を以て仏教の面目を仮装し、殊勝然として巧みに愚民を籠絡し、巨利を得たりし栄華の夢は、盛者必衰の道理により、果敢なくも徳川幕府と共に敗滅し去り……」(「仏教振起策に就て」近石傳四郎 『日本人』第五十三号 政教社 明治二十三年八月)*5

廃仏毀釈の惨状

かくのごとく(不当に?)低い評価を受けた近世仏教の後裔たちが、開国後の日本において果たした役割は、ひいき目に見ても傍流にとどまった。明治元(一八六八)年に王政復古・祭政一致の精神から「神仏分離令」が発布され、神社の祭神から権現・菩薩といった神仏習合の色彩が排除される。これは一種の神道原理主義ともいうべき「廃仏毀釈」(寺院の破壊や仏像・経典の焼却、僧侶の還俗などに至る仏教迫害)へと尖鋭化し、仏教界は修復しがたい打撃を受けた。江戸時代までの神仏習合によって僧侶の風下に置かれた神官らは、明治の革命によって日頃のルサンチマンを爆発させ、僧侶に還俗を強い、寺院を毀ち、貴重な文化財を次々に焼き払った。

隣国である中国や朝鮮では、仏教は歴史上幾度も公権力による徹底弾圧(廃仏)にさらされてきた。しかし仏教勢力もそのプレーヤーの一員であった戦国時代の混乱を例外とすれば、日本において仏教が、公権力の政策によって絶滅の危機に瀕したことなどついになかった。明治初期の廃仏毀釈は、日本の仏教徒にとってまさに前代未聞の法難だったのである。

しかしこの危機に際して、浄土真宗信徒の間で散発した護法一揆などを例外とすれば、仏教側には自らの信仰を守ろうという気概さえもほとんど見られなかったとされている。だから明治初年の笑い話としてこんな話も伝わる。

「増上寺は門前に鳥居を建て、浅草寺は本尊を観音でない事にし、下総成田の新勝寺は「当方は印度の佛神などを祭っているのではない。我国神代の不動尊うごかずのみことを奉祀するものである」と曲辯して廃業を免れようとした……」(『現代佛教 明治佛教の研究回顧号』昭和八年七月より)

東都名所 芝増上寺雪中ノ図

恐るべきは、これらの珍事がちっとも「笑い話」ではなかったことだ。維新政府の宗教政策は当初、平田国学を盲信する神道主義者たちに牛耳られていた。彼らは日本の宗教を神道主義に基づく「大教」として統合し、仏教そのものを最終的に廃滅しようと目論んでいたのだ。圧迫に対する仏教者の側の対応はといえば、前に引いたごときひたすらの迎合・媚びへつらいであったという。

江戸時代、宗門改め制度によって日本人すべてが名目上「仏教徒」となった。日本における「仏教土着」は完成したのである。そしてその土着化の過程で、日本仏教は宗教的なパッションが憑依すべき超越性、「不惜身命の働きを生みだす根元の力」(高取正男)を喪失してしまったのであろうか。

もっとも明治初頭にも、仏法護持のために孤軍奔走した福田行戒(浄土宗)や釈雲照(高野山真言宗)のような気骨ある僧侶はいた。浄土真宗は島地黙雷・赤松連城ら青年僧をいち早く欧米に留学させ、欧米の「信教の自由」の理念を用いて政府を論難した。

維新政府の神道押しつけ政策が迷走し、そのあまりの無内容によって頓挫した明治十年頃からは、仏教を復興し、近代化に対応させようという運動も各地で起きた。ただ総体として見た場合、仏教は日本の近代史を通じて、克服すべき旧体制のシンボルとして、蔑まれがちな負の存在であり続けた。

仏教再評価のジレンマ

アカデミズムの一部には仏教の価値を再評価する動きはあったものの、それもまた矛盾をはらんでいた。

「学者社会の仏教を信ずるハ、単に学術的より同意を表するまでにして、熱心に信仰しあくまで仏教を挽回せんとする者の如きは甚だ稀なり。しかるに僧侶は仏教を以て哲理に附合し、学者の賛成を得んことに孜々汲々として一方に偏したるにより、宗教的の信徒は漸次減少するの傾きあり……」(前出 近石傳四郎)

近石の語る「夫れ宗教の国家に必要なるは識者の定論」も、信仰の立場に立った要請でなく、知識人の頭で考えられた功利的な選択でしかなかった。

国粋主義勃興の時流のなかで仏教が再評価されたのも、西欧的価値観なかんずく一夫一婦制、廃娼運動、女権拡張、唯一絶対神信仰への帰依など、「我邦の風俗習慣を急激に変更せんとする」キリスト教に対して、仏教は「日本固有の國體を動かすの恐れなし」、つまり人畜無害の宗教とみなされたに過ぎなかった(原坦山がオルコットに共鳴して語った「西欧の宗教観を単純に仏教に当てはめるべきではない」という見解の是非は、ここでは置いておく。いずれにせよ、近代日本において仏教は非常に「すわりの悪い」ポジションで右往左往せざるを得なかったのだ)。

世界のなかの日本仏教

しかし、しかしである。一方で、明治以降の日本仏教徒は釈迦の故国であるインドへの渡航路を手にし、これまで「小乗仏教」として単に観念的批判の対象としてきた上座仏教諸国の仏教徒とも、少なからぬ宗教的交渉を持ち始めた。これから本書で物語る、日本の「開国」以来の南北仏教交流は、二千五百年の仏教史上でも特筆すべき事件だった。開国と明治維新という激動の渦中において、日本の仏教徒は知らず知らずのうちに、アジア全域に散らばる仏教徒との交流の波打ち際に立たされていた。

明治維新という荒波をまともにかぶり、天竺・唐・日本という古典的でおぼろげな世界観から解き放たれた仏教徒たちは、「世界のなかの日本仏教」としての自己確立を、このとき真剣に求められていたのである。


註釈

*5 現在、江戸時代の仏教に対するこのような否定的な見方は、一面的なものとされている。仏教思想を捨象して、儒教から国学への流れという政治思想中心に偏していた近世思想史研究の弊害が指摘され、儒者や国学者・平田神道信奉者らのプロパガンダに呪縛された「近世仏教堕落論」を相対化しようという試みも始まっている。その最新の成果といえる西村玲『近世仏教思想の独創 僧侶普寂の思想と実践』トランスビュー、二〇〇八年、で指摘されるように、「歴史的に見れば、近世仏教堕落論という学説は、明治以後の急速な近代化を達成するために、前代の江戸に対する全面的な否定を必要とした日本近代の時代状況から生まれてきたもの」だったことは否めない。近世仏教は幕藩体制下の社会システムに密接に組み込まれ、寺院は地域共同体の戸籍役場的な役割を果たしていた。西村の『近世仏教思想の独創』によれば、江戸時代の支配的宗派のひとつだった浄土宗の僧侶は一般的に「官僧」と呼ばれ、積極的に社会的役割を果たすことが前提とされていた。世俗内での活動に支障をきたす戒律はあえて受けないことも一般的で、場合によっては四波羅夷のひとつ、淫戒を守らずに出家であり続けることが容認された。そもそも具足戒(小乗戒)の権威を認めない大乗円頓戒の思想においては、一度受戒すればたとえ戒を破ったとしても「戒体」は壊れないので、事実上、僧侶はなんら道徳的掣肘を受けずに振る舞うことが可能だった。ただ一つ要請されることは、受戒の権利を持つ宗派の権威を認め、その位階制度のもとで「官僧」としての社会的な役割を果たすことだったのである。それに対して、念仏修行をもっぱらにし具足戒(小乗戒)の実践を行う僧侶は捨世僧、律僧と呼ばれ、近世中期までは宗派と距離を置いて自律性を保っていた。出家比丘の古風を守る捨世僧・律僧は、体制化した仏教に飽き足らず聖性を求める人々に広く支持されたが、常に少数派にとどまった。彼らは宗門の多数派から激しい批判を受け、徐々に浄土宗の統制下に取り込まれて逼塞させられてしまう。幕藩体制下、国民総仏教徒化を達成した江戸時代の仏教徒の主流を占めたのは、あくまで「官僧」の仏教であった。そのような「官僧」の仏教はしかし、近世社会全体から見れば、士農工商という階級社会に開いた貴重な風穴でもあったのだ。西村も引用しているが、福沢諭吉の『福翁自伝』では下級武士の五番目の末っ子として生まれた諭吉を、父が僧侶にするつもりだった、という逸話が語られる。諭吉は母から「アノ時阿父おとっさんは何故坊主にすると仰ッしやつたか合点が行かぬが、今御存命なればお前はお寺の坊様になつてる筈ぢや」と聞かされたという。「封建制度でチヤント物を箱の中に詰めたやうに秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云ふ有様、(中略)ソコデ私の父の身になつて考へて見れば、到底どんな事をしたつて名を成すことはできない。世間を見れば茲に坊主と云ふものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になつたと云ふやうな者が幾人イクラもある話」であった。また諭吉自身も、維新前後の混乱期のなかで、自分の息子を「耶蘇教の坊主」にしようかと悩んでいたというオチがある。近世社会において、出家して坊主になる、仏教世間に入るということは、確かに生まれつきの身分制度から自由になって、出世を望むための貴重な抜け道であった。大乗円頓戒を受けて宗派の位階秩序に身を投じれば、大っぴらに家族を持つ以外の自由は保障された。あとは自分の才覚によって官僧としての出世コースを歩むもよし、はたまた男根を切り落とすなどのエキセントリックな行動によって宗教的な聖性を求める人々の需要に応えるもよし、という自由な世界が広がっていたのだ。そのような社会的機能を担った江戸時代の仏教に対して、近代化によって新たに形成された「宗教」観を内面化した立場で「近世仏教堕落論」を唱え、その克服を叫ぶ近代仏教知識人の言説には、いつでも空回り感が付きまとった。だが、近世仏教堕落論は他ならぬ明治以降の仏教系知識人によって語り継がれた「史観」でもあった。近世仏教の否定と克服、すなわち仏教の近代化は、廃仏毀釈をくぐり抜けた日本仏教界にとって生き残りのための至上命題とされた。それは明治以降の日本の仏教系知識人(学僧や寺院出身のインテリ)が、近代的な宗教観によって仏教教学を再構築し、いち早く内面化し終わったからだ。しかし現実には知識人の言説はいつでも上滑りして、実態としての仏教は長らく「葬式仏教」という近世の制度的遺産の上に生き続けた(江戸仏教から廃仏毀釈へという流れは、宗教紛争というより、むしろ昨今の「郵政民営化」騒動とのアナロジーで捉えたほうが分かりやすい面がある)。近代の宗教としての仏教を内面化した知識人の意識と、「官僧」の仏教が民営化されただけで、仕事(社会的機能)の内実はさして変わらない日本仏教の現場とのギャップは終始深刻であった。仏教系知識人が叫ぶスローガンは、一時の感情的高揚をもたらしはしても、日本仏教の内実に変化をもたらすことは少なかった。そして本書で描かれるのは、あくまで仏教系知識人の歴史であることは、まずお断りしておかなければならない。


note版追記

註釈で言及した西村玲先生も2016年2月2日に他界されました。その死を巡る報道などから、日本の若手研究者の苦境が一般社会から少しだけ注目を浴びることにもなりました。西村先生の著作については拙YouTubeチャンネルの以下の動画でも言及しています。


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