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下北沢の漫画家事務所での新聞配達の件

 東京大学の駒場(教養学部)に通っていた頃、機会があって、1年間の新聞配達奨学生を住み込みで行っていました。

 私は、高校の頃から、大学に行ったら、自分で稼いで学校に行くとどういうわけか信じ込んでおり、短絡的に「それなら、新聞配達の奨学生でしょっ!!」と、思い込んでいました。

 そして、ある意味、強い願いが実現して、新聞配達奨学生になったわけです。

 新聞配達奨学生って、朝は早いは、拘束時間は長いは、とにかく眠いは、住み込みだからいろいろな人間関係はあるは、で、とにかく大変な仕事でした。

 それはともかく、駒場近辺の専売所に住み込み、京王井の頭線沿線の下北沢駅周辺(花の3区と呼ばれる区域でした。)を受け持ち、毎朝・毎夕、重い自転車をこぎ、新聞を持って走り、をしていたのですね。

 ある朝のことです。下北沢周辺のビル内のマンションのポストに、早朝、新聞を入れましたら、途端、シュンと新聞がドアの向こう側に引き抜かれたのです。

 そのドアには、当時、下北沢で活動していると自身の漫画に描いていたある漫画家の名前の表札が出ていました。

 その漫画家は、当時、人気があり、先年亡くなった吾妻ひでおという漫画家とも親交が厚いことで有名でしたが、このときは、「やられた~」と思いました。
 ※吾妻ひでおが亡くなったときは、朝日新聞の天声人語に取り上げられたくらいの漫画家ですが、漫画家人生の後半は、長期間の失踪生活もしており、代表作にもあるように、『不条理日記』な人生でしたのでしょう。

 1年間の新聞奨学生を勤め上げ、翌年、私は、東京大学漫画愛読会という(漫画を読んで評論するだけの)サークルに入りました。

 そのサークルでは、学園祭に、漫画家を呼んで講演をしてもらったり、模擬店を出したり、漫画評論を載せたコピー刷りの同人誌を軽く販売したりしていました。

 私は、その同人誌の記事の中の一つに先の新聞引き抜き事件の件を載せたんですね。

 実は、その漫画家は、自分の漫画の中で、早朝、新聞配達がされるタイミングで、ポストのあるドアの内側で待っており、新聞配達されるやいなや、引き抜くことを面白おかしく、描写していました。

 それって、ドアの外側にいるのは私じゃん、と同人誌の評論に書いたわけです。

 同人誌なんて、そもそもそんなに売れるもんじゃありませんが、その後、しばらくして、私の下宿に、何と、その漫画家の編集者から電話がかかってきたのです。
 ※今思うと、どうやって、電話番号を調べたのかなと思いますが、電話帳を見れば、わかる時代だったんでしょうね。

 「評論記事は、なかなか面白いので、読ませてもらった。ついては、あの同人誌は、何部くらい売れているの?」

 編集者は、漫画家の軽いいたずらにも、相手がおり、それが世間に広く出回るのを恐れたのでしょう。

 「いやぁ~。そんなに売れていませんよ。だいたい20~30部くらいかなぁ。」

 すると、安心したのか、礼を述べて、電話は切れました。

 今思うと、漫画の描写には、漫画家の事務所のドアの外側に、顔の見えない新聞配達の人が描かれていました。

 それって、私だったんだよなぁ~と思うんですね。かなり間接的であれ、私は、漫画の登場人物になったということなんです。


 まぁ、ともあれ、ちょっと新聞配達の人をバカにしているようないたずらでもあり、少々何だかなとは今は感じますよ。まぁ、緩やかな時代背景だったんでしょうね(^^)。

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