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学校は勉強だけでない、友達に会う場所

 大学時代、ラグビー部の天性の明るい高校生を教え子にした家庭教師を、中学3年生からの足かけ4年、担当していました。

 当時は、バブル全盛で、毎年、時給を上げてもらい、1,300円の時給から、最終的に、時給4,000円まで上昇しました。

 これは、何も単なる時流だけではなく、成果手当でもあった訳です。

 中学3年生の高校受験、高校3年生の大学受験(推薦入試)までの4年間でしたが、その間の学校のいい成績と受験結果をバックアップした結果です(本人の努力は当然です。)。

 まぁ、今だから言える訳ですが、高校の宿題をよく代わりにやってあげたものです。

 英語の宿題で、「学校って何のために行くのか?」という自由作文の課題が出て、私は、わざと英語のレベルを落としつつ、書いてあげました。

 「学校は、勉強しに行くところなのはもちろんですが、私にとっては、友達に会いに行くところです。」

 これが、ずいぶん先生にほめられたようで、明るい教え子は、ずいぶん喜んでいました。

 代わりに書いてあげた英作文ですが、私は、今でも、その内容自体にはいささかの偽りもないと思っています。

 学校で習うことって、正直、何のために勉強しているのかという話になると、「よくわからない」とか、もっと端的に、「大学進学のための受験勉強のため」とか、あまり高尚でない結論になりやすいのですね。

 学校で習う内容は、世界や社会全体を圧縮して、集約して、まとめた概論なんです。

 社会に巣立つに当たって、知っておいた方が役に立つよ、といったものが、ある意味、無味乾燥にまとめられているので、学生時代には、その学習する意味がよくわからないものなんです。

 ちなみに、教科書のほんの一行の記載のために、人類が要した努力にはすさまじいものがある、との記述に何度も触れたことがあります(マジです。(>_<))。

 しかしながら、学校というのは、勉強するためだけでない、友達に会いに行くところだというのは、本当です(と信じています)。

 学校という場で、青春の喜怒哀楽のうねりの中、友達と過ごすことは、大人になるまでの間に、学校を卒業してからこそその本当の意味がわかってくる「社会性」を身に付けることに他ならないからです。

 よくいじめとか、学習困難とか、学校不適応とかに対して、今や「逃げろ」という論調が主流になりつつあります。

 でも、現実に逃げた結果どうなるのかについては、その言を発した大人は、現実世界の責任を取ることはないのです(;_;)。

 一般的には、「逃げる」と、その後の人生に大きな代償を支払うことになります。

 確かに、自殺するよりは絶対的にいいのですが、責任ある大人は、「うまくやっていく」とか、「うまくやりすごす」とかの具体的な手段を教える方がいいと思います。

 学校は小さな社会(しかも、授業料を払う、いわば「お客様」としての立場の社会)ですから、そこでうまく行かない場合、大人になってから、お客様を扱う立場となる社会で、うまくやって行くことは考えにくいのです。

 ですので、単に「逃げろ」というのは、耳障りだけがいい、無責任な言葉です。

 むしろ、現実にうまく対処するよう、何とかかんとか、工夫しろ、そのためには、楽しい面にも目を向け、学校の中で社会性を磨くためにも、友達に会いに行くなどの視点も持て、と言いたいのですね。

 学校の勉強だけでない重要性を認識するのは、現実的で大切なことだと思いますよ。

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