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サディズム・マゾヒズムとジェンダー

サディズムとマゾヒズムという言葉は、心理学やパーソナリティ(気質、性格)の話、創作、文化、性的ロールプレイに出てくる。

鏡のような相互依存だと本でよく書かれていて、権力、快楽、罰による歪な関係性があり、いきすぎると全体主義の構造になるとも言われていて人間の類型として興味深い。

なんとなく雰囲気でサディズム・マゾヒズムの概念を自分なりに理解しているけど、ジェンダーと関連深いもので、絶えず変容しているジェンダー 観と共に今後どうなっていくのか考えてみた。

社会での人物像

サディストは、自己嫌悪と孤独がトリガーとなって憎悪と暴力を引き起こすタイプで、社会と折り合いをつけられる場合は「正義」として政治家や警官などの職能で攻撃性や支配性をカバーされることもある。
サディストの病理は他者に影響が大きいので、個人の問題ではなく、社会の問題として取り組むべきとも言われている。

マゾヒストは苦しみを受け入れる責任を常に感じ、自分を取るに足りない矮小な人物と思い込んでいる。サディズムと違って害が無いので社会的にはむしろ受け入れられやすい。ただ苦しみや罰を積極的に受けたいがためにわざとミスをして業務妨害するケースもある。

罰を与える対象が、内在化されているか外在化しているかの違いかもしれない。

語源になったマルキ・ド・サド、ザッヘル=マゾッホ

精神医学者のリヒャルト・フォン・クラフト=エビングが、マルキ・ド・サドとザッヘル=マゾッホからサディズム・マゾヒズムという用語を創り出した。

精神的、肉体的な加虐性がある社会病理を表すサディズムの語源になったマルキ・ド・サド。
行動だけを見ると、今の価値観で言えば、不道徳な小説を書いて、娼婦と揉め事を起こした田舎の貴族。
18世紀当時は反倫理、反宗教(キリスト教)の思想は社会に混乱をもたらし、心理学、文学、哲学の面で研究された。


マゾヒズムの語源になった小説家、貴族のザッヘル=マゾッホ。
被虐的な小説を書き、現実生活もそれに寄せた。サディズムとマゾヒズムは、相互依存なので、マゾヒスト側がサディストを教育して調教する描写がある。


文化

日本でも谷崎潤一郎の文学からポルノまでファンタジーとしてたくさんの作品がある。
フェティシズムの領域と被るのであまり深追いしていない。
日本の緊縛技術は芸術として評価されており、海外での就労ビザも取れるらしい。

日本のSMについての系譜が知れるのかと思って、団鬼六の「SMに市民権を与えたのは私です」を読んだけど、特に日本のSMの系譜みたいなものは無い団鬼六の自伝エッセイだった…。

ただ、冒頭に出てくる大阪のリアルゲットー釜ヶ崎で、大学を出たあと小豆相場で失敗した団鬼六と、その日暮らしのプロ棋士が賭け将棋をして、団鬼六が勝ち続けて、報酬に棋士の情婦と引き合わされる経緯が非常に面白かった。

SMの新解釈として面白いなと思ったのが「オメガバース・Dom/Subユニバース」。
ボーイズラブの創作で男性女性での役割別とダイナミクスという力関係がある世界観になっている。アニメや漫画に詳しく無いのがコンプレックスで、同人誌もあまり読んでこなかったけど読んでみたいと思った。


ジェンダー規範からの逸脱

マゾッホの書いた小説の主人公は、独裁的な女性に調教されているように見えて、実際には、被逆者である男性が女性を育成し仮装をさせて、過酷な言葉を言うように仕向けている。

回りくどい関係構築は、男性と女性の社会的立場の不均衡がひっくり返ることに醍醐味があるかもしれない。

サドの作品で、主人公は冷淡さと残酷性が際立ち、わいせつな描写が多数ある。フランスの著名なフェミニストのシモーヌ・ド・ボーヴォワール曰く、サドの作品には同性愛についての描写が多く、現実の人間関係で女性とのトラブルが多かったため、ミソジニーからくる暴力描写もあると指摘している。

サディズム・マゾヒズムは一対性のものではなく、それぞれに独自性があるとドゥルーズは論じた。
マゾッホは具体的なわいせつ描写はせず、極度の緊張状態と雰囲気でわいせつを表し、女性が官能性を否認して、男性として粗野な性格を持つ自分が懲罰(去勢)を与えられることで、思考を重ね初めて価値を獲得するという。

以前、ショーに出るような美しいマゾヒストの女性と話す機会があったとき、主人になるのは、性欲を自制できる女王様の方が崇拝できると言っていたのを思い出す。
ちなみにサドの独自性について、バタイユはサドの描く暴力の犠牲者はマゾッホが描く当事者と異なることがあげている。

フロイト的に男性を主体とする考察でいうと、サディストは母を否定して、父と娘の盟約関係を構築し、マゾヒストは父を否定して母と息子が盟約関係を構築する。

このままジェンダー平等が浸透すると、病理の在り方も変わり、またSM的な人間関係やロールプレイもあまり現実とのコントラストが浅く、昔より味わい深いものではなくなっていくかもしれない。


社会・政治的な観点から見て正しいセクシュアリティになり得るか

ジェンダー平等が当たり前になり、加虐的な行為はハラスメントとしてリスクになってきた。
サディスト・マゾヒストの隠れ蓑としては、社会正義を盾に攻撃したり、大義のために世界の痛みを背負った自己破壊の言動をしたりすることが、セクシュアリティの代替行動になるかもしれない。

思想的な行動以外に、肉体的苦痛をスポーツのような感覚で楽しむマゾヒストもいて、体育会系で厳しい部活動をしていた人や、肉体労働従事者は身体改造をものともしない痛みを受け入れる気合の入ったマゾヒストになる傾向がある。

この苦痛に対しての耐性は、とんでもない気圧の高山に登ったり、減圧の危険のある深海へのダイビングに向くと「挑戦」として人々から賞賛される。

根本にある病理はどちらも内在化・外在化の自己破壊なので、究極的に得られる効果だけ考えると、社会的文脈もステレオタイプなボンデージファッションも儀式もフェティシズムなので、切り離す実験はあっても良い思う。

人権の問題があるのであくまでも思考実験だけど、死なない程度に享受できる痛みと、刑法に触れない暴力の仕組みと、痛みと暴力の定義を紐解いてみると発見があるかもしれない。
例えば、痛みは侵害受容性痛、神経因性疼痛、心因性疼痛(非基質性疼痛)に大きく分類されるが、どれが人為的に作れるもので、ある種の人にとって良い痛みになるのか。
加虐的な行為や言動は実在しないキャラクターに対しては許されるのか。

周縁的セクシュアリティだったフーコーは「性の抑圧」についてこう書いた。

一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件に置いて出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係でそれと不十分の禁止や隠匿の事実が如何に分配されるのかを探求しなければならぬ。
知への意志 (性の歴史) ミシェル・フーコー

ポリティカルコレクトネス時代に即して、「倒錯」として人間本来が持っている欲求を抑圧せず、犠牲者不在で加害者不在の、倫理をクリアする方法の探求は必要かもしれない。


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