どっちかは息出来てない
ご存知ですか?このセリフ。
映画『脳内ポイズンベリー』の劇中に出てくるセリフです。
主人公が恋人にもらったオブジェについて、その恋人が言った言葉。
ぐさっ。
心に刺さる音が聞こえましたね。
この映画を何の気無しにふらっと一人で見に行ってから6年(え?ろくねん?)が経ちますが、今でも鮮明に思い出すセリフです。
あの時はまだ恋人同士だった私たち。
それが今となっては夫婦となりました。
あの頃は悩める乙女心に酔いしれる感じでこのセリフを噛み締めていたところがあります。
「ぐっ…すごい深い言葉だ…」
なんて。
今はあの頃の自分に言ってやりたい。
もっと噛み締めろ。本気で噛み締めて考えろ。
自分ごととして考えろ。
あ、いや待てよ。違う。
あの心臓に刺さる音と共に、背中がぞっとしたんだ。この言葉を聞いて、確かに苦しかったんだ。
これは、自分にも、自分たちに言えることだと。
たしかに悟った。それで、目を背けたんだ。
自分たちは大丈夫。そんなんじゃない。
そして、今の現実がある。
息、できてる?
慣れると思っていた。大丈夫だと、思っていたし、思い込もうとしていた。
しっかりと『夫婦』という定義の中に入れば、自然と呼吸は出来るものだと思っていた。
正確にいえば、息が続くようになることを相手にも自分にもただ期待していただけなのかもしれない。
それはとても無責任で、残酷な期待だった。
今、とてつもなく苦しくなる時がある。
それは当時の息苦しさよりもリアリティがあって、そして大きな孤独がある。
具体的に言ってみる
具体的にいうと、我が家には大きな問題がある。
それは『寝室問題』である。
簡潔に言うと、
私は一緒に眠りたい。
彼は一人で眠りたい。
これってたぶん、私が折れるべき案件なのですよね。
何故なら、睡眠の質はとても大切だし、そんな無理は相手にさせない方が良いから。
そしてもう一つ。
『言葉に表してほしい問題』
これも答えは出ております。
言えないなら、言わなくていい。
言って欲しいなら言って欲しいと言う。
自分から言えばいいじゃん。
言われなくても大したことじゃない。
…以上。
他にもいろいろあります。あるのです。
でもものすごくプライベートだったり、まだ少し整理がついていないことも多々あるのでここには書きません。
いずれにしても現時点で出ている答えたち、それは全て我慢であり、少しずつの寂しさなのです。
私の幸せたち。
それが少しずつ少しずつ、蝕まれ、
我慢という鍵をかけて封印せざるを得ないのです。
我慢の限界
一人で寝ていると、どうしても涙が止まらなくなる夜があって。
そして久しぶりに彼の腕枕で昼寝をした時、
こんな日常が帰ってきたらいいのにな。
そう思って、気付いたら彼の袖は涙で濡れていました。彼は気付いてきませんが。
言葉にされないと、行動を見るようになります。
そこから判断しようとする。
私は、認められているのだろうか?
だからその一挙一動で不安になる。
もう辞めたい。こんな気持ち。こんな日々。
そう思ってしまう日常がなくならない。
『どっちかは息出来てない』
この言葉ともっと向き合っておくべきだった。
自分が変わればいいんだと思っていたけど、自分が変わるだけじゃ限界があるということを知らなかった。
限界突破?
いつか。きっと。
そう思ってきたけれど、その日は来るのかな?
今は我慢だと思っていても、いつかそれが当たり前になる日がくるのかな?
相手の幸せを思えば、こんなの屁のかっぱだよ⭐︎
そう思うのが正解なのかな。
きっと彼も我慢してる。だから、私も我慢しなきゃ。
こんな2人で。幸せになれるのかな?
これに関して、まだ解は出ていない。
だれか、教えてほしいです。
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