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診断名がつくこと:ラベルについて(1)

先日,読書会に参加していました。『Unscientific Psychology』(Newman & Holzman, 1996)を分担で読んで,議論して,という形式の読書会です。

いくつか議論のトピックはあったのですが,そのうちの1つのトピックが今も気になっています。

そのトピックとは「ラベルを付ける意味」です。以前から少し考えていたこともあり,せっかくの機会なので,考えをとりあえずまとめるためにここに書いておこうと思います。

議論の発端

『Unscientific Psychology』は題目からもわかるように心理学に対する批判的な書物です。

その批判の一つとして,心理学へのパラダイム批判(パダライムの内容への批判ではなく,パラダイムの存在そのものへの批判)があるのですが,「パラダイムをなくすということがよくわからない」というコメントが議論の発端だったと思います。

そのあとの詳細な議論の経緯は忘れてしまいましたが,その議論の流れの中で,「たとえば,診断がつくことで安心する人たちもいるから,パラダイムをなくすと,そういう良い面もなくなるのではないか」みたいな話がありました。

たとえば,ニューマン&ホルツマンは「精神疾患なんて神話だ」と言うわけですが,「でも実際に困っている人たちがいて,診断があることによって救われた人たちもいる,そこをどう考えるのか」というご指摘だと思います。

広く言えば「ラベルを付けることには意味があるよね」というご指摘で,とてもよくわかる指摘です。他者にラベルを付けることをどう考えたらいいのかについてはずっと考えていますが,あまりにも大きな問題ですので,まずは「診断名がつく」ことについて少し考えてみました。

「診断名がつくと安心する」における問題点

「診断名がつくと安心する」というのは結構聞く話です。そういう部分があるのは事実だと思います。たとえば,「自分はなぜ人とのコミュニケーションがうまくとれないのか」と悩んでいた人が,アスペルガー症候群という診断を受けた結果,「なるほど,私は病気だったからできなかったんだ」と安心する場合などはこれにあたります。

この「安心」という効果自体は何も悪いものではないと思います。自分の悩みに診断がつき,すっきりすることは,本人にとっても,それを支えていた周りの人にとっても,安寧な生活を送る上では良いこともかもしれません。

ですので,この場合の問題は,「安心」という効果ではなく,「診断がつくこと」にあるのだと思います。

精神障害を診断すること

そもそも診断とは悪い部分(欠陥)を見つけることです。身体的な病気の診断を考えてもらうとわかりやすいかと思います。病気の診断とは「病気」という悪いものを見つけることです。

精神的な事象における診断も同様で,発達障害とか精神障害とかは基本的に「欠陥」としてみられているわけです。言い換えれば,「普通」の人と比べて何かが「できない」人としてみられているわけです。だから診断名がつくわけです。

たとえば,上述したアスペルガー症候群であれば,対人コミュニケーションができない人として見られているからその診断名がつくわけです。

そして,ここに大きな問題があるのだと思います。「〇〇ができない」と捉えられてしまうと,その人がその人のまま新しい人に成る可能性がなくなることが多いように思います。

たとえば,『ゲンロンβ41』「共事をつくる(小松理虔)」で紹介されていた土屋くんを例に考えてみます。

なお,ここで当事者について考えるには手持ちの情報が少ないので一旦置いておき,当事者の周囲の人に関して考えてみます。

(1)土屋くんの事例

土屋くんは,重度の知的障害などの様々な障害を持った人たちが利用する施設の利用者の一人です。ここを利用しているということはおそらく彼も何らかの診断を受けているのだと思います(仮に障害Aとします)。彼は,水に触ったり,水を体にかけるのが大好きで,注意してもペットボトルの水を体や机などにかけてしまう,そうです。

(2)周囲の人の反応

周囲に人は診断名を聞くことで「だからあの人はこうなんだ」と感じると思います。たとえば,土屋くんは障害Aと聞くことで,「だから水をかけるのをやめられないんだ」と思うでしょう。ここで「〇〇できない」というラベルが付与されます。

そうすると周囲の人は,その人を「できない」人と捉えはじめます。その人が「できる」ことに着目するのではなく,「できない」ことを前提に色々と考えはじめます。たとえば,「彼は水をかけずにはいられない」とかです。

そして,それを補うために色々と支援するわけですが,そのときは当事者を「普通」にするための支援になりがちです。

たとえば,「彼が水をかけなくなるように教育しよう」とか「水を近くに置かないようにしよう」とかです。いわゆる「普通」の人ができることが基準になり,それができるようにその人(やその人の周囲の環境)を調整しようとするわけです。

それによって,その人がしたかったことや,その人がその人のまま新しい人に成れるはずだった可能性が奪われていくわけです。たとえば,「共事をつくる(小松理虔)」で紹介されるように,土屋くんの行為を「表現行為」と捉えれば,何かしらのもの(水アートとか?もしかしたらできる?)がありえたかもしれないのに,「できなさ」に着目することでこれは奪われるわけです。

「診断名がつく」ことの弊害の一部はこういうところにあるのかなと思います。

要点の整理

要するに,診断名がつくことで

(1)その人の「できなさ」に着目することになる

(2)それによって,その人の「できる」可能性が奪われる

というのが,診断名がつくことによる(特に周囲の人における)弊害かなと思います。

留保事項

一応,述べておきますと,そもそも精神的な事象を診断するということ自体にも異論はあります。たとえば,アスペルガー障害でいえば「対人関係の不器用さがはっきりすること」が特徴として挙げられますが,対人関係の不器用さがそもそも謎です。

対人関係の不器用さをどのように定義するかの問題では?と思うかもしれませんが,定義の内容ではなく,定義することそのもの自体に個人的には違和感があります。

定義することによって,色んな人が「精神障害」ないしは「発達障害」などと名指されます。たとえば,その悪い例として,ちょっと変わった人に対して「あの人は発達障害だよね」という素人診断があります。これについてはまだ考察が深まっていないので、いつか深めたいと思います。

またこれに絡む問題として「なぜ外部から精神的な事象を診断できるのか」というのも疑問です。ビネーの知能検査のような形であればまだ理解できますが,現在のような「心」の捉え方には大きな疑問があります。この点もいずれ言語化したいと思います。

補足

先日,大学院の同期の友人とメールをしていたとき,上のような問題,つまり「診断名がつくことで個人の可能性が制限される」という話は結構ある話だと聞きました。

ですので,時代の流れ的にも,診断名がつくことが問題化してきており,それをさらに敷衍すれば,他者へのラベルが問題化しているということなのかなと思いました。

ただそばにいることがサポートなのかなと思っています。また見に来てください。気が向いたときにご支援お願いします。