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アラーキーの女たち、岩合光昭の猫たち。

Twitterで書いてたたことだけど整理してまとめておく。話題のアラーキーに対する #MeToo 告発文と、それに対するいくつかの反応を読んだ。

私はわりと現代アートは好きなほうで、学生時代には大叔父の形見の一眼レフを持ち歩いてるような子だったし、そこそこ写真も見てきたつもりだが、個人的にはアラーキーは「センチメンタルな旅・冬の旅」(この写真集は好きで引越し時にも処分してないと思うので、たぶん今も家のどこかにある)と愛猫の写真がほぼ全てなんじゃないかと思っていて、奥さんが亡くなった後の彼の仕事は、やるべきことが終わってしまった後にそれでも食べていくための作業だったんだろう、そのために女たちを利用しただけなんだろう、と感じてる。

この件に関して、告発者の女性の写真を「私写真」と位置付けて評論を書いてる人がいて、私には何となく違和感があった。

「私写真」なんていうものは一時的にせよ愛がなきゃ撮れないもの・撮るべきでないものだ。【あなたの今を撮りたい】というコミュニケーションの欲望よりも【こういう写真が撮りたい】という表現欲が前提としてあるものは、たとえそれがプライベートな空間で撮影されたものであっても「モデル写真」であって「私写真」とは言えないのでは、と思う。

少なくとも奥さんとネコの写真には、ファインダーのこっちにいる撮影者(アラーキー)を存在を強く感じるじゃないですか。そういうのが「私写真」っていうものだ。「私写真における」は撮り手の側であり、そこにおいて暴きだされるものは被写体じゃなくて、写真には写っていない撮影者の内面のほうだ。

そういう観点では、私は告発者である女性の写真も含め、奥さん没後のアラーキーが撮影した一連の女たちの写真に「私写真」と呼べるような「」を特に感じなかった。全部見たわけじゃないから、間違ってるかも知れないけど。

そこに【ミューズ】という呪術的な言葉を当てはめてしまったせいで話が混乱したような気がするのだけど、モデル写真なのにモデル料払わないのは普通にNGでしょう。と私は思った。それは告発者の意図とは違う話なのかも知れないけど。

あと性的暴力によって自己肯定感を奪われた女性が呪縛を逃れ、精神的に回復するには大変な時間とエネルギーを要するものなので「どうしてその場で嫌って言わなかったの?」「なんで今さら言い出すの?」などという告発者への問いかけは、不適切な2次加害となることも付け加えておかねばだな、と思った。

批評家連中のおじさんたちよりも、むしろアラーキー好き、アラーキーに撮られたい、みたいな女の子がこれ言っちゃいがちなところが、いろんな意味で重い。

で、ここからが表題の話になるのだが。

篠山紀信派とアラーキー派がわかれて喧嘩してたのも遠い昔で、平成のいま、一般の人でも知ってる現役写真家といえば、蜷川実花か猫専門ムツゴロウと化した岩合光昭、戦場カメラマン渡部陽一ぐらいではなかろうか。

このメンツでいくと、岩合光昭氏に対して猫からの #MeToo 告発があった場合に、擁護派による告発者叩きでSNSが最も激しく荒れそうである。

これ冗談ではあるのだけれど、岩合光昭氏がその猫写真の原点にあたる「海ちゃん」を最期まで飼ってないこととか、猫の避妊問題とかに関しては基本ノーコメントであることに文句を言う猫好きが少ないというのは、わりかしダブスタだよね、と思ったりもする。まぁ、もとが野生動物写真家だから、ご本人には特に矛盾はないんだけど。

でも、猫好きを自認する人が「ペットは家族と同じだから最期まで責任を持って飼おう」と言い「生まれた赤ちゃんを保健所に連れていかれるのはかわいそう、野良猫・地域猫に避妊や予防接種を」と言いながら、同時に岩合光昭氏の猫写真を手放しで絶賛しまくるのって、セクハラ・パワハラや女性差別に反対!と言いながら、アラーキーのセクハラや相撲協会の女性差別を特別扱いして擁護するのとどこかしら似てる。そこにあるものを見て見ぬフリする感じが。

うちの母なんかも飼い猫が死んじゃってからは「岩合光昭の世界ネコ歩き」に癒されてるし、実際には猫は言葉を喋らないので人間を #MeToo 告発してくることはないのだが、仮に彼らが人間と同じ言葉を話せたら、猫カフェにおけるお触り問題なんかは人間の風俗と同様、猫権問題として大論争になりそうだし、岩合氏も告発対象になるはず。ってかなりそう。

あの伝説的作品のモデルである猫の海ちゃんが「私は岩合光昭のミューズであり道具だった」とハフポスあたりに激白するところを想像して、さぁ、誰がどんなエクストリーム擁護を繰りだし、猫権派はどこまで自らを律することができるのか、などと考えている。

岩合氏自身がその種のエバンジェリストたらんとして写真撮ってるとは思わないけど、現実問題、彼の野良猫の写真をみた感想として「路上で生き生きと暮らす猫ちゃんたちを捕まえて人間が勝手に避妊手術を施すのは自然の摂理に反しているのではないかと思った」とか言い出す人が少なからず出てくることから言っても、「可愛いは正義」だけで済まない部分もあるし。

ちなみに私のタイムラインには、年がら年中猫の写真をRTして、ニクキュウは正義、とか発作的にツイートしてる人が相当数いるにも関わらず、岩合氏の写真に対するこの小さな当てこすりにはほとんど反応がなかった。「猫好き」の大半は【岩合光昭保守】として完全に飼いならされているし、被写体である猫が #MeToo をやったら全力でぶっ叩きそうだな、と思ってしまう。

私は岩合光昭氏のペンギンの写真集はとても気に入っていて今でも手元にもあるのだけど(あれ絶版なのかな…あまり本屋で見かけない)、昨今の猫写真に関しては、わりとどうでもいいなと思ってる。そりゃ猫は可愛いし写真も上手いし、人にプレゼントするには丁度いいなとも思うけど、極地やアフリカで撮ってた野生動物写真とはぜんぜん違う、お商売っぽいから。

ペンギンが好きというだけで買った写真集だったけど、あの写真集の中の目を三角にして喧嘩してる可愛いくないペンギン、ペンギンの白骨死体、空飛ぶように泳ぐペンギンの群れ、全ての写真に野生動物のパワーとそれに向き合う写真家の熱量を感じたし、人間に生息域を脅かされているペンギンの今の姿を撮る、という社会的な視点もあって良い写真集だった。

あの時期の作品と比べたら、最近の猫写真なんかは基本的におまんまのための猫搾取であり堕落もいいとこじゃないか、と思う。たまにはかつての熱量を感じさせるいい写真もあるけど。

処女作とか出世作にはその人のおおよそ全てが詰まっていて、あとは一気にダメになるか、ゆっくりとダメになっていくかの違いしかない」という説にはそこそこ真実味があって、尻上がりによくなっていく芸術家というのは少数派だ。それでも引き返せないほどの名声を得てしまったアーチストは、どうやって食べていくのが正解なのだろう。

などという身も蓋もないことを思うと、アラーキーの女たち、岩合光昭の猫たちがなんとなく重なって見える。ミューズか呪いか、作品を消費するだけの私には結局わからないのですが。

#アート #雑感 #アラーキー #岩合光昭 #写真 #201804



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