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実体のない再会

夢を見た。
大学生になっていた。
いつまで学生の時分を振り返るんだろう?
目の前の暮らしがいっぱいいっぱいのときは現実に満たされるけども、少し暇ができるとこれなのである。ただ、このごろ明らかに夢の質は変わってきた。わたしはこれからもあの頃を色んな角度から反芻していくのだろう。

夢の話。
原付で国道を走っていた。
アイスクリーム屋のある国道だ。

北に向かう道は大学への道とは全く違っていたけれど、そこにはないはずの路面電車があって、道ゆく車の合間に、道路の真ん中に知り合いがポツポツと立ち大学へ向かう電車を待っていた。それぞれの知り合いたちと手を振り交わして挨拶をする。
前期は実家に帰って静養していた『部長』が姿を現したとき、わたしは思わずその人の名前を叫んだ。
でもその声は彼にはうまく届かなくて、他の聞こえていた知り合いに苦笑いで嗜められた。
働き始めてから何度もこの分別くさい笑い顔を多くの人に投げかけられた。学生の頃じゃなく大人になってから知っている表情だった。

その部長は公言するほどいっとう気に入りの人だった。
自己紹介からどうかしていて、松本人志を尊敬する、図体の大きい甘ったれだった。彼の発言のひとつひとつには力があり、わたしはそれを一体どんな立場なのかわからないけれど愛していた。

長年人と関わりながら暮らしていると、いくら印象の強かった人でもその特性や個性が、そのあと出会う人も持っていて、よくよく元を辿るとテレビの影響を受けていたとか、少年だった頃のクラスの立ち位置が大体同じであるとか、案外理に適った戦略的キャラクターだった、みたいなことを知る。
仲良くしていたつもりだったけど、その人の本当の人格には辿り着けなかったのかもしれない。あるいは、普通の感性を持った普通の人間だったんだろうな、みたいなことを思っている。
部長は、誰にも似ておらず、どれだけ生きていても部長に再会することはできなかった。

最近、その部長のなにかを持った人に出会った。
出会ったのに誰のことか忘れてしまった。わたしが部長を愛していたのは嘘だったのかもしれない。
部長に似た人を見つけたことで、ずっと孤独で苦しそうだった彼を、あなたは決して1人ではないよとなぜか祈った。

愛しているってなんだろうか?
部長は決して顔の作りが美しいという感じでもなく、そして本人も努力をしていなかったと思う。白髪混じりのぼさぼさ頭はいつも伸び放題だったから。

わたしはあまり顔のいい男を褒めない節がある。
顔がいいと自信を持ちやすく、天から与えられた(と当時は思っていた)事物を誉めたところで良い影響を与えるような気がしていなかった。そんなだから顔のいい人と親睦を深めることもなかった。

ちょっと顔がタイプの先輩がいた。

その彼女は先輩の同級生なので当然同じくわたしの先輩で、彼女と仲良くなるために、そして本人に褒めると調子に乗ると思って、彼女の方に「あの人かっこいいと思ってました」と申した。そんなかっこいい人と付き合ってるあなたはきっと魅力的ですね、という意味を込めたつもりで、それ以上の他意なんてなかった。なかったけれど血気盛んな20歳には後輩女の宣戦布告だと思われたらしく、それからその先輩とは距離を置かれてしまった。
のちに男の方の先輩とは授業で関わることがあり「あのとき彼女から『取られちゃうかと思った』と泣かれてね」と嬉しそうに言われた。怒って野菜を投げられた話なども含めた2人のやり取りを想像して、わたしには関係のないことだと思った。ただ人を褒めたかっただけなのに。
褒め方もひとつ間違えると何もかもに巻き込まれてわたしの本意なんてどうでもいいものになるのは、今も昔も真実である。

そんなわけで見た目のいいものを褒めるというのは経験上碌なことがない。
その点、部長を褒めるのは気が楽だった。
部長はいじけていたから褒めても嬉しそうではあるが、私を好きになるみたいなことはなかったし、もちろんわたしもそんな気はさらさらなかった。
ただ人を、いいなと思ったら褒めたかった。

顔のいい人と付き合うステータスなんかよりも、自分が決めた価値観による自分の気に入りのものたちで自分の周りを満たしたい。そんな若くて逞しい欲望でいっぱいだったあの頃。今はどうだろう。

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