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読書合宿記録

4年ほど前、東京にいた頃からの我が夫婦の恒例行事ですが、年に一度「読書合宿」というものを開催しています。
始まりは私が転職の軸を定めたいという理由で集中して思考するために都内のホテルを探し、家事一切と雑事から解放され考え事をする(夫は積読本を持参し読書に耽る)というイベントだったのですが、
実施してみると想像以上に良かったので、以降毎年夏シーズンの恒例行事となり、夫婦各々課題を決めて取り組む機会にしています。

今回の私の課題は、「思考の主体性を取り戻す」こと。
今年に入ってからというもの、「本厄だから」という理由でもちょっと納得できないくらい大小さまざまな問題が起こり、ややこしい案件がきたりして、対応に追われ気づけば半年が経過しているという有様でした。

私にしては珍しいのですが、何となく受動的に思考しているというか、自分の対応を場当たり的に感じたり、整合性がある発言ができているか不安になったり、本当に大切なことは漏れてしまっているような気持ちになったりして、だんだんと自分の判断や進め方に自信がなくなってしまう感覚に陥ってきていました。

そんな中、たまたまSNSで見つけてタイトルに目を奪われ、読み始めるとやはり面白く、一気に読み切ったのがこちらの本です。

・お金を払うというのは、自分で解決できない問題を他人にパスしているだけ。お金を受け取り実際に手を動かしてくれた人が問題を解決している。
・選べなければお金は力を失う。20年前は一兆円出してもスマートフォンは買えなかった。
・値段と価値(使用価値)とは区別して考えなければならない。
・内側と外側の価値観の違い=日本を「内側」と考えると、値段自体が上がることに大した意味はない。未来の幸せにつながる社会の蓄積を増やすことの方が重要。
・お金を増やすこと自体を目的にすると、ただの奪い合いになり共有することはできない。私たちが確実に共有するのは未来。
・借金をして破綻した国もあれば破綻しなかった国もある。両者を分けるのは「そのお金で誰に働いてもらったか」ということ。破綻した国は国の中の人が働かず、外国に頼った結果お金が国外に流れ、将来世代が働いて返さなければならなくなった。(=ツケになった)
・働くこと=誰かのためになる行為そのもの。その行為にお金が絡むかどうかは本質的には関係ない。一人ひとりが誰かの問題を解決しているから私たちの社会は成り立ってる。お金が社会を支えているわけではなく、補っているだけ。
・儲からないと会社は存続できないが、もうけること自体を目的にしたら会社は長続きしない。
・同じ言語を話さない人、異なる宗教を信仰する人、出会ったら憎みあうかもしれない人が協力して一つの物を作っている。お金を使った経済によって人々の間に調和と平和が促進されている。(フリードマン)

「きみのお金は誰のため(田内学著)」から抜粋

振り返ると、私のこれまでの頭の中では少なくとも「働くこと」と「資産形成」が分断されていたのですが、本書を読み終えるとそれが一つになったような感覚を得ました。
「お金を増やすこと」だけを目的にするとゼロサムゲームになる(奪い合いになる)だけでなく、肝心の未来に向けた蓄積ができない。
自分たちが迎える未来がより良いものになるよう考え、行動し(=働き)、結果としてお金を得ることを志向すべきなのだなと、一定程度腹落ちしました。
(著者が仰りたいことを完全に理解できたかといえばそんなことはないと思いますが)

自分の仕事を考えたときに、「ラクに稼ぐには」というキーワードの魔力に惑わされることが最近増えてきたなと感じるので、ソリューションこそ命の精神を見失わず、手を動かし学び続けなければと感じました。
同時に「どこで働いているか」はそんなに問題ではない、という気持ちにもなりました。何をしているか、誰のどんな課題を解決できているかが大切なのであって、どの組織に所属しているかは大した問題ではないな、と。

それで、延長線上で気づいてしまったのですが、今の法人で働いている限り部署をまたいだチームワークが中心になるので「私の実務の知見の蓄積」は限定的なのです。
以前はプロフェッショナルとして特定分野の経験を蓄積するなら中規模~大手法人が向いているという記事も書きましたが、今年で実務7年目になるので、自分自身の成長指針をゼネラリストに置くか(→早めの独立の方がよいかも)、スペシャリストを志すか判断すべき時期が近づいてきているように思います。

少し本質に立ち戻れた気がするので、以前より肩の力を抜いて、自分のやるべきことに集中していきたいと思います。
乱文気味になりましたが、最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。それでは。

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