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「デュファイらしさ」はむづかしい—東京現音計画#21~ミュージシャンズセレクション8:橋本晋哉2 with 菅沼起一「Switched-on Dufay」【コンサートミニレポ#15】


東京現音計画#21~ミュージシャンズセレクション8:橋本晋哉2 with 菅沼起一「Switched-on Dufay」

公演日:2024年7月10日(水)19:00開演(18:30開場)
会場:すみだトリフォニーホール小ホール

ディレクター:橋本晋哉
プログラム監修:菅沼起一
演奏:東京現音計画 
有馬純寿(エレクトロニクス)、大石将紀(サクソフォン)、神田佳子(打楽器)、 黒田亜樹(ピアノ)、橋本晋哉(チューバ)
ゲスト:菅沼起一(リコーダー)

プログラム:
①ギョーム・デュファイ/夏田昌和 ミサ曲《幸いなるかな天の女王》から〈サンクトゥス〉
③グレゴリオ聖歌 交唱《幸いなるかな天の女王》
⑤ギョーム・デュファイ《コンスタンティノープル聖母教会の嘆き》
⑦ギョーム・デュファイ《花の中の花》
⑨ギョーム・デュファイ《もしも顔が青いなら》
⑪ギョーム・デュファイ/夏田昌和 ミサ曲《幸いなるかな天の女王》から〈サンクトゥス〉+奏者による即興演奏
⑬リコーダー、セルパン、エレクトロニクスによる即興演奏(ミサ曲《幸いなるかな天の女王》による)
⑫稲森安太己:ピアノ・エチュード第2番「デュファイへのオマージュ」(2023)
⑭夏田昌和:デュファイのいる風景(2024 委嘱初演)
【デュファイのスタイル・コンポジション(様式作曲)「現音計画アカデミー」成果発表】
②永見怜大《Blue Sky Falling》
④内垣亜優《デュファイの音楽を聴いて》
⑥麻生海督《地下劇場4》
⑧山田奈直《Cloak of Conscience》
⑩石田千飛世《メカニカル・デュファイ》

舞台監督:鈴木英生(カノン工房)
照明:菅勝治
制作:福永綾子(ナヤ・コレクティブ)
フライヤー&ロゴデザイン、写真:松蔭浩之

主催:東京現音計画
助成:
公益財団法人 野村財団
芸術文化振興基金助成事業
公益財団法人 日本室内楽振興財団
公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京[東京芸術文化創造発信助成]

協力:有限会社ハリーケン、モモ・カンパニー

前半はデュファイとアカデミー生の作品が交互に演奏される形で進んでいった。作品数が多いからか演奏間の拍手は一度もなくぶっ続け。後半はデュファイを下敷きにした即興演奏を、稲森作品の再演と夏田作品の初演で挟んだ。

デュファイ作品

いきなり合成音声によるデュファイで面食らう。しかし(現在瀕死の)ニコニコ動画などには、ルネサンス音楽の合唱曲をボカロに歌わせるのはよくあるようなイメージがある。パレストリーナとか、ジャヌカンとか(調べてみるとYouTubeにもミクちゃんのデュファイがあったりする)。でも、こうやって優れた音響空間で有馬さんの見事に制御された音響を味わうことができるのは特別な体験だ。「つかみ」としてはこれ以上ない。
はリコーダー、サクソフォン、チューバ、ピアニカ、打楽器という編成なのだが、ピアニカが悪目立ちしすぎる。音量のバランスが精密に求められるこのような作品でピアニカを使用するのは無理筋に思える。
は現音計画+リコーダーで演奏される(⑤はサクソフォン、チューバ、ピアノ+リコーダー、⑦はサクソフォン、チューバ+リコーダー)。わりとオーソドックスなリアライゼーションだが、これがまた非常に美しい。好演。
は有名な作品だが、なんとトイピアノによるソロ。深夜のパーキング・エリアのトイレで流れていてほしい感じ。素晴らしいアイデア。
はデュファイの世界観を生かし切ったエレクトロニクスが全体を統率している。この2作品を含め、全体的に有馬氏の技量に支えられていた。

現代作品

問題は結局のところ、「デュファイらしさ」とは何なのかということに行き着く。アカデミー生の作品の多くがデュファイを踏み台にして跳躍していくのを見るにつけ、「様式作曲(スタイル・コンポジション)」とは何ぞやという問いが浮上してくる。菅沼氏のプログラムノートを読む限り、スタイル・コンポジションを経たアカデミー生が任意のスタイルで曲を書くという流れだったようなので、プログラムに「様式作曲」と書いてしまったのはまずかったように思う。

②永見作品

作曲家の個性が湧いて出てくるような作品でとても面白いとは思うのだけど。だけど……。デュファイはただの足枷にしかなっていないような(苦笑)。この企画にはあまり向いていない感じがする。自由に作った方が力を発揮するタイプだろう(というか企画をほとんど無視して自由にやってしまっていたように見える)。

④内垣作品

昨年の近藤聖也氏のコントラバスリサイタルで《コン、とこ、バンッ!》を聴いてすごく良かったので今回も期待していた作曲家。楽器の特性を追究するタイプの作曲家なので、古楽のスタイルを学ぶという今回の趣旨にはすごく合っていると思う。作品はリコーダーとチューバによるデュオ。これも作品としては面白い。ただ、リコーダーとチューバの「掛け合い」が作品の中心になってしまうことは気にかかる。ポリフォニー音楽が分解されるとき、そこには何が残っているのだろうか。結局「デュファイらしさ」をどこに見出すかという問題に帰ってくるけれど、この作品に「デュファイらしさ」を見出すのは私には困難だった。

⑥麻生作品

これも作品としては十分に面白い。ただ、デュファイからは跳躍しきっている。あとはディレイをかませるようなエレクトロニクスのやり方が(他の作品のエレクトロニクスに比べて)良かったのかと疑問符がつくところもあった。

⑧山田作品

この作品の面白さはエレクトロニクスの大胆な使用にあると思う。はじめのうち耳鳴りがするなあと思いはじめたのだが、その耳鳴りは徐々に大きくなっていき、それが耳鳴りではなく有馬氏の仕業であることに気づくのだった。作曲者によれば電子音響による爆音は菅沼氏のリコーダー音を無数に重ねたものなのだとか。この作品の場合、「デュファイらしさ」は「メンスーラ」に見出されたわけだが、私が一聴した際には「メンスーラ」の応用はテンポの揺れにしか発見できなかった(実際にはいろいろと「メンスーラ」的要素があったようだが)。メンスーラを単にテンポの問題に回収してしまうのはやはりまずいだろうし、そもそも近代西洋音楽とは根本的に異なっている概念なので、現代音楽の作曲にメンスーラを取り入れるとはどういうことなのか、という点に関してはもう少し考える必要があると思う。これ自体ひとつの企画になるくらい難しいテーマだ。

⑩石田作品

私が感じた「デュファイらしさ」に最も近かった。デュファイを現代に移築するというアイデア自体は単純だし、《メカニカル・デュファイ》というタイトルもそのまんまではあるが、こういう作品が求められていたという気はする(というか私は求めていた)。直前(⑨)に演奏された《もしも顔が青いなら》を下敷きにして、A機械音声による歌詞の読み上げ、B引用された器楽演奏(トイ木琴、トイピアノ、チューバによる、これ自体もポリフォニック)、Cスマートフォンのライトによるモールス信号、の三要素が3声のポリフォニーとして展開される。この作品が何よりも素晴らしいと思ったのは機械音声がはじめ原語(古フランス語)ではじまったのちそこに日本語訳が重ねられていくことである。そもそも会場のほとんどすべての人は古フランス語を解さないわけだが、日本語訳が語られても原語や他の楽器と交じりあうことによってほとんど何も聞き取れない(プログラムノートには日本語訳が親切に載せられている)。この意味性の攪乱こそポリフォニー音楽の重要な性質である。「何を言ってるのかわかんねえじゃんか」というのがたいていいつもモノフォニー側からのポリフォニーへの批判である(このような批判が「オペラ」という偉大なジャンルを生んだりもした)。音楽が絡まり合い、逆に意味は解けていく。この企画に対する一つの「正解」を見た気がした。

⑫稲森作品と⑭夏田作品

後半に演奏された⑫稲森作品と⑭夏田作品はどちらも良作。でも、勝手気ままに飛び跳ねている若い作曲家たちを前に印象は薄くならざるを得なかった。「デュファイらしさ」も維持されており現代的な書法で、ということであればこういう作品なのだろうとは思いつつ、しかしアカデミー生がこんな作品ばかり提出してきたらつまらないよなあなどとも思い、教育的課題を提示する大人たちとそれを無視して自由に書く若者たちという構図が結局は一番面白いと結論づけて、この演奏会のレポートとしておく。

蛇足:「新しい音楽」のありか

若い作曲家たちは、過去の作曲家に学んでみるのもよいだろうし、そのようなものを無視してひたすら自分の答えを求めるのでも良いと思う。ただし、先に触れたオペラの誕生がそうであるように、古い音楽の希求がまったく新しい音楽の開拓に繋がることがしばしばあることも事実である(これは音楽に限らない話だろう)。

「もう新しい音楽など作りようがない」などという言説が罷り通っているが、これはただ一回きりの特別な生を生きている(と思い込んでいる)人間たちによる誤謬に過ぎない。新しいものはもうどこにもない、というところから常に新しいものは生まれてきたのだ、と、真実がどうであれ私たちは信じるべきなのだ。

そのような観点から、新しい音楽はデュファイに眠っているかもしれない、と考えることができる。そして、デュファイに眠っている可能性があるのなら、他の限りない過去に眠っている可能性にだってまた、賭することができるだろう。

(文責:西垣龍一)

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