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ショーペンハウアーが語る、物書きとして大切なこと 『読書について』

読書、本を読むことについて語られている本は多数ありますが、
今回は1800年代に書かれた、ショーペンハウアーの『読書について』を読み、非常に示唆に富んでいたので筆をとってみます。

ショーペンハウアーってだれ?

1700年代後半に生まれ、かのゲーテと友人関係であった哲学家。
日本では森鴎外、海外ではアインシュタイン、ヘッセ、フロイト、トルストイ...と、以後の登場する各分野の傑出した天才たちに影響を与えた人物です。

『読書について』

そんな多くの人物に影響を与えた彼が語る『読書について』

ひいては文章を書く人物への言及が描かれていますが、示唆に富む一方で、とても耳が痛い部分もあり、非常に血肉になるものでした。

ショーペンハウアーが語る読書とは

読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである
いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。
我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。だが知るといっても真の意味で知られるのは、ただすでに考えぬかれたことだけである
もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない

”自分で幾度となく考え抜いた知識にしか価値はない。読書は他人の考えたことをなぞるようなものだ” と話しています。

読書に意味はないとまで断言はしていませんが、ものすごくネガティブな物言いです。

真に伝えたいメッセージは、自分で考えて答えを出せ、ということでしょうか。

物書きにおける

そして、文章を書く側を見ると、著作家と気取った人物には大きな違いがあると。

具体的には、主張すべき真実を所有しているか。それが言葉や文章を端的にし、曖昧さを除外するとのことでした。

著作家であればまた、実際、主張すべき真実のものを所有しているため、つねに極度に飾り気のない簡潔な表現法、きれいにわりきった明確無比な表現法を駆使するであろう。それはその関心が、ただ現に所有しているこの思想を、読者の中にも呼びおこさなければ、ということだけに集中しているためである
気取りすましてものを書く者は、下賤な者と間違われないため、ぴかぴかの美服をまとう者に似ている。だからある種のけばけばしい服装、入念に飾り立てた衣裳は賤民の印であるように、気取った文体は知的賤民の印である。 
だがそれにもかかわらず、話すとおりにものを書こうとするのは、誤った努力である。むしろいかなる文体も碑文的文体の面影を、いく分でも留めているべきである。碑文にそなわる文体こそいっさいの文体の祖である。
曖昧不明瞭さは、九分九厘まで思想が明瞭さを欠くために生じ、思想不明瞭という事態はほとんどつねにまたその思想の誤り、矛盾、不正から発生するのである。ある人の頭脳に正しい思想が浮かぶと、その人はただちにその明瞭化につとめ、やがてそれに成功する。だから一度考えぬいた明瞭な思想には、ぴたりとした表現辞句も容易に見つかる。人間の力で考えられることは、いついかなる時でも、明瞭平明な言葉、曖昧さをおよそ断ち切った言葉で表現される。

noteを書いてみると、この歳になってもまだ、自分なりの文体が存在しないことに気づきます。また、毎日書いてみると、自分が何に関心があり、どう感じ、どう表現するのか、少しずつ趣向性が形作られてきます。

それをポンと産み落とす作業が文章であるわけですが、どこかメッセージが不明瞭だなと、我ながら痛感する瞬間も多く、未だ悩み続けていたりします。

ただ、それについてショーペンハウアーは、思想の謝り、矛盾、不正が原因だ!と語っており、そう言われるとグゥの音も出ない、、と言わざるを得ません(自分なりに考えているように見えて、彼のいう考え詰めるまで達していない実感はたしかにありました)。

最後に

自らの思考、思想が最重要だ、が彼の主張するところですが、それは文章だけでなく、普段の言動にも現れると話します。

第一級の精神にふさわしい特徴は、その判断がすべて他人の世話にならず直接自分が下したものであるということである。このような精神の持ち主が提出する意見は、ことごとく自ら思索した結果であり、しかもそうであることは、そのものの言い方のはしばしにも表われている

時に初めてお会いする方に対して、ビビッとくることがありますが、それはその方の思想から現れる言動を感じ取り、より深い興味に繋がっているからかもしれません。

逆に、自分自身に上記の問いを立てた時、どう行った答えが返ってくるものだろうか、とふと気になるものです。が、それもまた考えぬかないと出てこないのかもしれません、、(思考実験のようですね。。笑)

単に内側から出てくるものを産み落とすではなく、内側から出てくるものに向き合っては思考し、その後に初めて文章に落とすプロセスに意識的に変えてみようと思うキッカケでした。

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