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補遺:アリストテレス

 以前にアリストテレスについては、能力主義、差別主義、拝金主義とまとめておきました。今回は、徳の源泉にそれらがあることを整理します。

 一方で、忙しい人(ビジネスマン)は市民になれないと言っていたアリストテレスを、ビジネスの場で参照することの滑稽さにも、少し触れましたが、ビジネスマンや経営者が参照したがる理由もよく分かります。

財産のなかでも第一番に、そしてとびっきり大切で欠くべからざるもの、それがまた家政上も最善のものであり最重要なものである。つまり奴隷だ。だから、なによりもまず、質のいい奴隷たちを入手しなければならない。奴隷には二種類ある。監督人と肉体労働者である。分かりきったことだが、若い者たちの性格を形成するにはしつけというものが肝心であるから、彼らに幾分なりとも自由人らしい仕事を任せるつもりなら、まえもってしっかり訓練しておかねばならない。奴隷たちと交わるうえで肝心なことは、つけ上がらせもせず、虐めもせず、自由人がやるような仕事を任せた連中には褒美を取らせ、肉体労働をやらせている連中には食い物をどっさりやることだ。

山川偉也『哲学者ディオゲネス』講談社学術文庫、2008年

 ディオゲネスについての本からの引用ですが、この文章はアリストテレスの『政治学』のものです。家政を経営、監督人を管理職、肉体労働者を一般社員と読み替えると、まんま、会社の経営ですよね。
 古代ギリシャ哲学の良さは、素朴さなわけですが、ようするに、差別についても素朴です。現代のビジネスシーンでは、ぶっちゃけ、アリストテレスが言っていることをオブラートに包んでいるだけ、というものも多いと思います。

アリストテレス哲学理解のポイント

  1. 倫理学は政治学の入り口という位置づけ

  2. 体系として破綻していること(目的論的であること)は欠点ではない

  3. ギリシャ語は語彙が少ないので、一つの言葉に多くの意味が重なっている

 1は、結構重要です。平たくいうと、倫理学(例えば『ニコ倫』)だけ取り外して読むというのは、理解という点では無理があります。だって、使われている言葉は政治学での文脈での意味が前提になっていますからね。

 2。どの様な哲学だって、目的があって論述を進めている側面はあります。それとは別に、古代ギリシャの哲学は、学問的厳密性なんてそもそも考えられていないし、明確な目的・ゴールありきの論述であることをテクストの中でも何度も言っているんだから、理解としてはまずは目的をおさえておくことは、不自然な読み方ではないはずです。

 3について、これも平たくいうと、日本語の訳とか、カタカナのテクニカルタームにあまりビビらなくてよいということです。例えば、徳というと……そうですねぇ人徳とか、仁とか、なんとなくイメージするわけですけど、アレテーは、やっぱ卓越性:人より優れていることですよね。しかも、何で優れているかは言葉としては関係ないんです。身体的能力や弁論の上手さかもしれなくて、必ずしも人格が優れていることに限定される言葉じゃないです。さらに、それが厳密な意味というより、さらっと善や美とつながっている。身体的能力が高い人の身体は美しいし、それは(ポリスにとって弱いよりも)善いことだよね、というようなこういう素朴さがあるということです。

 奴隷制度を簡単に言うと、市民と奴隷を分けて、人間扱いするのは市民の方だけ、というものです。そして、ここは重要なところですが、これは、古代ギリシャの常識、と考えるのは間違いです。なぜ、わざわざアリストテレスが奴隷制度を詳しく解説し、擁護するのか。それは、人間と人間の間に区別はない(ようするに平等)でしょという意見が普通にあったからです。
 つまり、ポリスの運営にあたっては、奴隷制(差別)があった方がいい――この「いい」は善という意味ですが――とアリストテレスは考えたわけです。同時に、その方が本性に合っているという言い方もします。

 そして、現代の私たちの世界をリードしている欧米の人間観世界観はアリストテレスの延長線上です。大事なのは秩序のもとである、ノモス(法律とか習慣)というのが一つの特徴です。
 正確には、ギリシャ語のノミスマには、二つの意味がありました。①社会で通用し認められている「慣例」や「制度」。②「通貨」や(法律で決められた)「量目」。この二つの意味合いを訳の場合は、文脈で使い分けるわけですが、実際のニュアンスとしては、二つの意味は常に重なっています。まずは、ポリスの運営に必要なもの、と考えておきましょう。

 ポイントは、その場合、ノミスマというのは、状況に応じて(あるいは支配者層の欲望に応じて)千変万化するものということです。ノミスマが普遍的であるとか本性(フィシス)に即しているというのはフィクションです。
 ディオゲネスは、フィシス(英語ではフィジカル)をノモスの反対のものと鋭く対置するわけですね。逆にアリストテレスは、都合よく根拠としてフィシスを持ち出す、そういう対立関係があったということです。

 アリストテレスの「人間とはポリス的動物である」という定義は、人間とは社会的な生き物であるという風に言い換えられつつ、有名ですね。このことについて、アリストテレスのテクストに内在しても齟齬があることはあまり知られていません。アリストテレスは、きちんと観察する人ですから、ポリス的な生活をしている動物がいることも知っていました。そして、この定義では、奴隷も人間ということになってしまいます。しかし、アリストテレス的には、奴隷は、この人間の定義には入りません。だから、この定義に加えて、「ロゴス(言葉)が扱える」が入ってきます。

 ここに、大きな難題があります。奴隷は、主人の命令を理解しないといけません。一方で、ロゴス(政治的な言説)は使えない。つまり、奴隷とは、厳密に言うとロゴスの能力をもたずにロゴスを理解する能力を持つ者、となります。これは、どう考えたって詭弁です。ようは、アリストテレスが目的論的と言われるのは、こういうところです。ポリスの運営という目的ありきで、分類するので、自分が他で述べていることと齟齬が生じるんですね。
 もっというと、アリストテレスの哲学は、体系としては成立していません。ポリスの役に立つかどうかを、尺度にしながら、他方で観想的生活(そういうのとかかわらないこと)が哲学(政治)の要件とか言っているからです(これは国家論的には破綻です)。ようするに、単に差別主義というだけでなく、今の言葉でいう、ガッチガチの伝統的で保守的なイデオロギーに基づいた人間観が、目的論的に述べられているんです。

 アリストテレスにとっては、ロゴスこそが有益なものと有害なもの、正しいものや正しくないものを明らかにするものでした。一方では、奴隷にロゴスの理解を求め、他方ではその発揮は禁止する。そういう詭弁があります。そして、もっと大事なのは、その詭弁からも排除されている人です。
 つまりは、奴隷なのに市民としての発言をする人。奴隷としてもポリスの役に立たないにも関わらずロゴスを用いる人(ディオゲネス)を論理的に排除します。
 具体的には、ポリスの適切な人口について、こういったことも言っています。「一目で見回しうる範囲」。なぜなら、あまりに多いと外国人や在留外国人が発覚されないまま容易にポリスの中枢部分に侵入してきて市民権を得ることが起こりうるから。……経営者もこういう発想しますよねぇー。

 では、ポリスに役に立つかどうかって、どうやって測るんでしょうか。「万物の尺度はノミスマである。」
 アリストテレスは、ポリスにとって役に立っているかどうかの度合いに応じて配分すべきと考えるのですが、役に立つかどうかって、その時の必要性(需要)によって変わりますよね。で、需要自体は測れないので、結果論的に価値を測る基準は貨幣(ノミスマ)であるということです。だから、能力に応じてというのは、実際的には、貨幣によって測られる能力に応じてということです。
 プルタゴラスの命題「万物の尺度は人間である」は、金銭の高さによって表される有用、有価値な物を測る尺度であるのは人間である、に言い換えられるわけです。もっというと、そこから、「人間」を消したのがアリストテレスです。だから、万物の尺度は貨幣であるということになる。

 そして、いいですか! 「それはある意味で中(中庸)なのである」ともいいます。中庸って、なんか良いこと言ってそうに思うかもしれませんが、違いますよ。単純にお金を稼ぐ能力があるかどうかのことです。かてて加えて、おおよそ徳がある人というのはその人の持っているお金に比例する、とも言います。アテレーを卓越性とか訳しますが、なんのことはない、お金を稼ぐ能力のことです。つ・ま・り、徳とは、お金を稼ぐ能力のことです。それが、真であり、善であり、美なのです。

 「たいていどこでも、善行の人々の地位をしめているように見えるのは金持ちである」(『政治学』)。人間が本性として持っている目的である公益とは、金銭の等価性のことであって、(等価でないものを等価と主張する)平等とは根本的に異なるものです。交換の論理とは公益に従うことです。ノミスマ(特定の共同体の決め事)が基準で、フィシス(人間が自然の中で単に人間であること)はポリスから排除すべき対象になります。

 というのは、特定の尺度に従って、各当事者が自分に帰せられる分け前を享受するかについての選択/排除です。
 正義とは、適切な分け前を、有利なものと不利なものの中間の分け前を受け取ることです。

 センセーショナルなのは、徳や正義、付随して卓越性などの言葉が、能力主義に還元されていることではありません。その能力を測る、貨幣に還元されていることです。現代の私たちの道徳、倫理、といったものの源泉は、なんのことはない、お金を稼ぐ能力なのです。
 このことを、グレーバーは『負債論』において、また違った角度(人類学的アプローチ)から、明らかにしました。徳や正義は、等価交換というフィクションの裏にある非等価交換に対する、返済義務のことだと、言うのです。

 ディオゲネスは、そういうアリストテレス……ひいては巨大帝国を築いたアレクサンドロス大王に対して、(まるでニーチェのように)価値転換を実践した哲学者でした。
 皆さんは、どう思われますか。光あるアリストテレスの系譜における、徳や正義と、ある意味、闇に葬られたディオゲネス→ストア学派→イエスの系譜……どちらに共感するでしょうか。
 少なくとも、私たちはアリストテレスの世界に住み、そして苦しんでいます。なぜならば、原理的に排除の論理から組み立てられているからです。

 このように、アリストテレスのテクストに内在した(外からの解釈をあんまり持ち込まないで、書いてあるものを素直に読んだ)、その結論は素直に受け取ればいいと思います。
 簡単にまとめると、哲学は、本質というより結局、測れる量(特にお金を持っているかどうか)で人を判断する。ポリスという共同体が前提ならば、そのメンバーとメンバーじゃない人を分断する(差別する)。卓越していることが善いことなら、弱者(病人や老人、普通ではない人など)は単純に悪いものと価値付ける。所詮はこの程度だ、ということです。難しいことなんかないです。そして、この先は、個人個人の判断になりますけど、こんな哲学ありがたがる必要ありますか? 私は、こんな考えは嫌なので、違う考え方をしないといけなと思います。

 私の意見はさておき、逆にこの記事で紹介したものを踏まえてアリストテレスを読み直すなら、現代的意義は★★★★★と言ってもいいでしょう。それほど乗り越えなければならないものだからです。

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