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アリストテレス:『ニコマコス倫理学』

読むならこれ!『ニコ倫』

 アリストテレスという大物の一冊の選定は悩みました。アリストテレスの著作は原典の真偽、写本の問題、編集した人の都合などなど、複雑な事情があって、基本的に通読しにくいと考えてください。その中でも比較的まとまっており、結論(主張)が明確な一冊を選びました。
 ちなみに、ニコマコスというのは固有名詞なので、意味は無いです。長いので、哲学界隈ではニコ倫と略します。

リュケイオンでの講義録がベース

 リュケイオン(というアリストテレスの学園)については、後で取り上げます。そこでのアリストテレスによる授業があり、その講義ノートが元になった本だということです。

倫理学とは基本的に「幸福論」

 どうやったら幸せになれるか。これがアリストテレスの倫理学の基本です。つまり、倫理学という名前ですが、内容的にはほぼ幸福論とか、幸せになれる条件、が書かれてれています。

ビジネスマンは幸せになれない!

 これは私の意見ではないですよ。アリストテレスがそう言っているんです。具体的な、幸せの条件ですが……①自足的、これは健康で、食事やその他の生活の雑務をしなくていい状態という意味です。②閑暇的、ようするに暇ってことです。アリストテレスは、「幸福はスコレー(暇)にあり、アスコリア(暇じゃない=忙しい)ことの目的は、暇になるための作業だよね」と考えます。ただ、「戦争するのだって、目的は平和のためだよね。それと同じなんだよ」と言われると、確かにそうかもって思いますね。あと③可能な範囲で疲れていない、などを挙げています。これら全部合わせて「観照的生活」といったりしますが、ま、言葉として覚えておけば後の西欧哲学で出てくることあります。
 さて、このスコレー(暇)という言葉は、スクール(学校)の語源です。学ぶことと暇は同じ言葉なんですね。そして、ビジネス(business)という英語はビジー=忙しい状態ってことです。つまり、ビジネスマンはそもそも幸せの条件を満たすことができないということです。そう言われると、心外な気もしますが、確かに多くのビジネスマンって疲れ切っている(③)のも事実……。

時代背景

 アテナイの衰退期です。もう、周りの国の脅威にさらされ続けている状態です。アリストテレス自身の立ち位置は、この後書きます。

どんな人物

分類マニア!

 とにかく、物事を分けて考えるのが大好きです。原因と結果、目的と手段、そういった、私たちの思考の原型をつくりあげたのがアリストテレスといってもいいでしょう。もう少しちきんと、業績に触れるなら、荒削りとはいえ、現在にも継承されている学問分野を分けて考えたのもアリストテレスです。
 ちょっと込み入った話になるので、読み飛ばして頂いていい雑談をここで。形而上学って、なんかかっこいいですよね。哲学の代名詞のように使われることもあります。この分類もアリストテレスのものなんですが、実際にメタフィジカと名付けたのは後の編集した人です。メタというのは「○○の後で」という意味で、フィジカ(自然に関する学問)のに編纂したのが、名前の由来です。アリストテレス自身は、おそらく第一哲学と考えていました。どういう意味で第一なのかというと、目的と手段って、実際にはグラデーションですよね。大きな目的から見れば、手段と言えるものも、その下の手段から見れば目的だったりします。アリストテレスは現実的な考え方の人でそういうグラデーションを受け入れます(プラトンは違いました。イデアが全ての基ですから)。ただ、プラトンのイデア論を批判しつつ、目的をさかのぼっていって、それ以上、上の目的は無い事柄を第一哲学と考えたわけです。

政治学の前章という位置づけ

 さて、そうしたら、倫理学は全体の中でどういう位置づけかというと、まず、学問は自然に関する学人間に関する学に分けられます。誤解を恐れずに言えば、これは、理系と文系の分類の起源です。さらにアリストテレスがすごいのは、自然に関する学も、動物学とか植物学とかに分けていくし、人間に関する学も、今でいう政治学や心理学というように分けているわけです。このように、学問分野の基礎を築いたのはアリストテレスといって間違いないです。
 そして、倫理学は、人間に関する学の一つですが、位置づけとしては政治学の前になります。倫理学を踏まえて、政治の話をしようね、といったところでしょう。

田舎者(バルバロイ)

 プラトンはアテナイの名家の出自でした。アリストテレスはマケドニア(アテナイからすると敵国)の近くの生まれです。このことが、いい意味でも悪い意味でもアリストテレスの人生に影響します。

何をした

リュケイオンをつくった

 プラトンがアカデメイアをつくったように、アリストテレスも学校をつくりました。でも、アテナイの名家でもない、多くのアカデメイアの学生の一人がどうして学校をつくれたのでしょう。それはマケドニアの支援を得ることができたからです。ニコ倫もその一つですが、リュケイオンでの生活、および成果は素晴らしいものがあります。ただ、アカデメイアほど有名でないのは、学校として劣っていたというより、アテナイの敵対勢力の庇護にあったという側面も大きいわけです。

プラトンとの違い:イデア論批判、そして経験の学へ

 イデア論を批判については、軽く触れました。よく、プラトンは理想から考え(帰納的)、アリストテレスは経験を大事にする(演繹的)と言われます。そういう絵画もあります。間違いではありません。とはいえ、違いばかりに目がいきがちですが、プラトンとアリストテレスの思想は、かなり似ています。イデアについても形相(エイドス)と言い換えて、実質同じことを言っていますし、なんだかんだ言って、第一哲学(形而上学)に最高のポジションを与えてもいます。また、倫理学では、中庸(真ん中)を大事にしたのがアリストテレスの特徴ですが、中庸というアイデアはプラトンだって言ってます(『国家』にもでてきます)。つまり、現代の読者からすれば、当たり前といえば当たり前ですが、同じ時代を生きた二人なんですから、そんなに違いは無いんです。
 とはいえ、顕著な違いもあります。それが倫理学の位置づけです。プラトンは最高に厳密な学問として倫理学を位置づけました。アリストテレスは、厳密な学問はむしろ自然学とかで、倫理学はわりとグラデーションですよね、という割り切りがあり、その部分は大きな違いともいえます。

アレクサンダー大王の家庭教師

 これは、有名ですよね。ただ、実際は若きアレクサンドロスに哲学を教えた……というのは無理があるようです。単なる家庭教師程度だったかもしれません。まぁ(比喩として妥当かどうかは別にして)日本人哲学者がドイツに留学したとき、「ドイツ語の」(つまり語学の)家庭教師がハイデガーだったりしましたからね。そういうことです。物語としては面白いですが、哲学の歴史への影響力なんかたかがしれているという一つの例だと、私は思います。

現代的評価:★

最低点。日和らずに最低点。
 あと、文才は相手が悪いですがプラトンに劣ります。わりとシンプルなのに読みにくい、それがアリストテレスの文章です。これは訳の問題ではありません。原典からそうなんです。

現実と理想

 繰り返しですがプラトンは理想。アリストテレスは現実。そして、現代に与えている影響も明らかにアリストテレスの方が大きく、ビジネスにおいても、やれ「もしアリストテレスが○○を経営したら」なり「プロジェクトアリストテレス」なり、取り上げられるわけですが! 著作を読んで下さい。ほとんど役に立ちません。
 著作はさておき、生い立ちがその証左と、私は思っています。田舎者がマケドニアの支援で学校をつくって、アテナイで反マケドニアの勢力が強まったときに、避難した先で頓死するわけですが、アリストテレスは現実(の政治)に影響を与える気持ちがあったでしょうか。プラトンと比べた場合、それは低いです。理想から出発して現実の死やら苦難に見を投じたプラトン。一方で、そもそも強国(敵国)の支援で学校をつくったアリストテレス。どっちが現実と向き合ったんですかというのは、遠く離れた現代の私たちだからこそ、素直に判断できると思います。その理論的結果が、例の「観照的生活」です。それに対して、プラトンは現実的脅威である敵国への対抗戦力の充実をリアルに考えたんです。アリストテレスは実践しないからこそ、経験主義的であることができた、多くの反論がありそうですが、私はそう思います。

差別主義が過ぎる

 これは、ある程度はプラトンにも言えることです。時代の常識というやつですね。しかし、アリストテレスがいう幸福(エウダイモニア)とはダイモンに守られているということであり、ようするに運がいいということです。当時ですから、病気になるの運次第です。でも、健康に暮らしている(well-being)人が基本で、そうでない人はそもそも幸福の条件から外れているので考慮にも値しないということ。輪をかけて、アリストテレスはゴリゴリの能力主義です。卓越性(エートス)というのは、ぶっちゃけ他の人より有能だということです。逆に言えば、そうでない人は、いりませんと言ってます。当時の常識を踏まえて割り引いて捉えてほしいのですが、女性や子どもはそもそも幸福になれないとも言ってます。別にいいんですよ。ただ、こういうことを無視して、アリストテレスのいいとこ取りをするビジネス書は、たぶん大事な部分を読み違えているということが、私の言いたいことです。

さいごに

 哲学者紹介の一つの限界は、現代で常識になっているようなものをつくりあげた人は、評価が下がってしまうというものです。だから、デカルトなどは多分評価が低いですよ。ただし、大事なことなんですが、当時はすごかったんです。常識破りだったんです。それが常識となった時代に生きている私たちからは、陳腐なものに見えるものこそ、偉大なのです。
 アリストテレスは確かにすごかった。でも、皆さんには、現代に引き継がれたものの下敷きにある、思想を考えに入れてほしいと思うのです。
 ここまで読んでいただいた方に、小話を一つ。中庸にこそ正しさ(正義がある)という話ですが、中庸とは物事の間にあるもののことです。では、物のやり取りの間にあるものは何でしょう。それは、現代でも古代でも貨幣です。そして、アリストテレスは、結局、貨幣(お金)が正義の基準だよね、って言うんですよ。拝金主義といえば、それまでですが、哲学の理論的にそういうわけです。で、確かに実際そうだよね、という現実があります。これが、現実主義(経験主義)の結論なんですよ。プラトンと、アリストテレス、どちらがあなたの好みですか。
 哲学史的には、この好みは延々と続きます。プラトンかアリストテレス。カントかヘーゲル。フッサールかハイデガー……さぁ、覚悟してください。
 「お前の罪を数えろ」ということです。私は数えました。

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