2020年 東京学芸大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、15本目は東京学芸大学の日本史。時代は古代・中世・近世・近代それぞれ1題の合計4題。形式は用語記述+論述。史料読解も多少あり。では、以下私なりの解答と解説。


第1問 古代の女帝

問1.解答 a:斉明 b:元明 c:孝謙

解説 古代政治史の基本問題。aは「皇極」天皇と=なので、斉明天皇、cは「称徳」天皇と=なので孝謙天皇、bは推古・皇極・持統・元正・孝謙以外の古代の女帝なので、文武天皇の母である元明天皇となる。

問2.解答 皇極天皇と孝謙天皇が重祚して2回天皇になったため、六人で八代分の天皇を女性がつとめたことになっているということ。

解説 設問の要求は女性の天皇が「八代六人」とはどういうことか説明すること。条件として「重祚」という言葉を使うこと。問1でも述べたが、リード文で推古・皇極・持統・元明・元正・孝謙という6人の女帝が掲載されており、「重祚」というキーワードも示されているので、それほど難しくはなかっただろう。

問3.解答 百済

解説 斉明天皇の頃の「対外戦争」と言えば、唐・新羅の連合軍と戦った白村江の戦いであり、これは直前に滅ぼされた百済の復興を救援するためのものであった。

問4.解答 譲位

解説 なんとも時事的な問題。「天皇が生前に代替わりする行為」で漢字二字とくれば譲位である。報道でしきりに「生前譲位」と表現されたことへの皮肉だろうか。

問5.解答 古代においては中国の儒教的な考えが重視されていく中で、君主は男性がつくべきという考えが浸透していった。また、女帝が担っていた皇太子の後見という役割を摂政や関白、院が担うようになっていった。中世以降は先例を重視する姿勢も相まっていき、近世になると幕府が朱子学を重視したことからも男尊女卑な儒教的な考えが改めて強まっていった。君主は男性にすべきという考えは明治になっても根強く残り、現代の皇室典範も明治期の皇室典範を参考にしていったため、女帝は認められないままとなった。

解説 設問の要求は、古代の女帝を評価する意見がある一方で、中世・近世・現代にいたるまで、女性が天皇になることが基本的に認められていないような歴史になっていったのはなぜか説明すること。うーん、オープンクエスチョン。いわゆつ「正解は一つではない」問題でしょうか。「考えて説明せよ」なので、知識というより知識に基づいて思考した意見を求められている問題。しかし選抜試験である以上は採点基準をどうしているか気になるところ。解答例ではとりあえずこんな感じではどうか、と書いてみたが、リード文では「女帝に対する差別的なまなざしや、女性だからという先入観があったのではなかろうか」とも書かれているので、この「差別的なまなざし」や「先入観」を歴史的な事例とともに説明しても良いかもしれない。


第2問 鎌倉時代の改元

問1.解答 『新古今和歌集』

解説 「藤原定家が撰者のひとり」「鎌倉時代初期に編纂」「勅撰和歌集」とここまで来れば後鳥羽上皇の命で編纂された新古今和歌集であろう。

問2.解答 (1)九条兼実 (2)玉葉 (3)藤原頼経 (4)北条政子

解説 鎌倉時代初期の政治史の基本問題。(1)は九条道家の祖父で判断しても良いし、「源頼朝の援護」で「摂政」から判断もできる。(2)は鎌倉時代初期の基本史料でもある。(3)は初代の摂家将軍として確認しておきたい。(4)は将軍を後見できるような鎌倉幕府側の女性なんて一人しかいないだろう。

問3.解答 大学

解説 「貴族の子弟らに教授」「律令で定められた教育機関」といえば大学であり、大学寮とも呼ばれた。

問4.解答 ウ

解説 ア:正文。天皇の代替わりで改元することがあったのは、史料文の「皇子が、昨年即位し四条天皇となっている」といったところからも判断できるだろう。イ:正文。例えば「寿永」という元号は養和の飢饉などの災害があったことも改元の理由となっている。ウ:誤文。「ひとりの天皇の時代において元号はひとつ」とは一世一元の制であり、日本では明治以降に採用された。それまでは天皇一代の間でも改元されることはよくあった。エ:正文。史料文では九条道家の主張により、元号が「天福」となったことが書かれており、まさに「権力者の意思が元号決定を左右」した事例であろう。

問5.解答 近衛家・鷹司家・二条家・一条家

解説 難。というか高校日本史で五摂家を全て覚える必要があるか疑問。鎌倉時代の初期に近衛家と九条家が分立、さらに近衛家から鷹司家が、九条家から二条家と一条家が分立して五摂家が誕生した。

問6.解答 ア・ウ

解説 難。いわゆる鎌倉時代の宮騒動についての問題。藤原頼経が成長して将軍権力を強めようとすると、執権の北条氏と対立して将軍職を子の頼嗣に譲らされた。その後頼経は幕府への謀反に加担したとされ、京都に送還された。また、九条道家の外孫の四条天皇は急死しており、正文はアとウということになる。

問7.解答 三代将軍の源実朝が暗殺され、朝幕関係が揺らぐと、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の兵をあげた。しかし尼将軍政子の呼びかけや泰時らの活躍で幕府側が勝利し、上皇らは配流となった。

解説 設問の要求は承久の乱を説明すること。どこまで書いたら良いか難しいところではあるが、原因(実朝の暗殺からの朝幕関係の動揺)・経過(後鳥羽上皇の挙兵、幕府の反撃)・結果(幕府の勝利、上皇らの配流)についてまとめたらよいだろう。


第3問 江戸時代の発展

問1.解答 1651年に兵学者の由井正雪が牢人とともに幕府転覆を企てた。

解説 設問の要求は史料に記された「計画」について説明すること。条件として、発覚した年(西暦)を含めること。個人的には西暦年を聞く問題は余程の必要性が無い限り何だかなと思う。史料文中に「正雪は」とあり、リード文で「牢人(浪人)たちにかかわる事件」と書かれているので、問われているのは慶安の変(由井(由比)正雪の乱のことだと判断できる。

問2.解答 跡継ぎがおらず改易となって牢人が増加することを防ぐために、末期養子の禁を緩和した。

解説 設問の要求は問1の事件後に改易を減らすために出した幕府法令の意図と内容を説明すること。慶安の変後に改易を減らすために出された、とくれば末期養子の禁の緩和である。幕府は跡継ぎの居ない大名が死に際に養子を願い出ることを禁じていたが、その結果取りつぶしになった主人の下を離れた武士が牢人となり、幕府の治安を乱すこととなった。そのため末期養子の禁を緩和し、大名の改易を減らし、牢人の増加を防ごうとしたのである。

問3.解答 河村瑞賢によって西廻り海運が整備された。

解答 設問の要求は「海路の整備」について説明すること。条件として、担当した商人の名前や航路名などを使うこと。江戸時代の海路の整備と言えば河村瑞賢であるが、ここでは「大坂に向けて、日本海沿岸の米や物資を運ぶ」海路を問うているので、北前船を使った西廻り海運のことである。

問4.解答 諸藩の年貢米である蔵物が、取引に携わる蔵元や代金の出納に関わる掛屋といった商人を通じて販売された。

解説 設問の要求は大坂における諸藩の米商売の様子を説明すること。条件として「掛屋」「蔵元」「蔵物」の語を用いること。用語の意味を正確に理解していれば解ける問題ではあるが、江戸時代の経済の範囲としては似た用語で説明に戸惑うこともあるだろう。「蔵物」は字のごとく、蔵の物で、蔵に集められた諸藩の年貢や特産品である。「蔵元」は蔵の元締めと捉えると良いか。蔵にある品物を取り扱う大元である。「掛屋」は金を掛けるのであり、代金を取り扱う業者である。似た用語でも、字の意味をよく考えて理解しておきたい。

問5.解答 a:ウ b:ア c:エ d:オ e:イ

解説 元禄文化の基本問題。元禄の「浮世草子の作者」と言えば井原西鶴、「人形浄瑠璃の脚本」と言えば近松門左衛門、「人形浄瑠璃の語り手」と言えば竹本義太夫、歌舞伎の「荒事」と言えば市川団十郎(初代)、「和事」と言えば坂田藤十郎である。

問6.解答 ③:イ ④:ウ

解説 宝暦・天明期の文化の基本問題。「国学」の代表的作品と言えば本居宣長の『古事記伝』、「蘭学」に関する著作と言えば杉田玄白・前野良沢らの『解体新書』である。

問7.解答 寺子屋が各地につくられた。

解説 江戸時代における「民衆の教育機関」と言えば寺子屋であろう。都市・農村を問わず各地につくられ、庶民から武士の子弟まで多くの者が読み書きそろばんを学んだ。

問8.解答 蔦屋重三郎

解説 「本屋」で、「山東京伝、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出した」となれば、寛政の改革でも処分された蔦屋重三郎である。


第4問 性教育の歴史

問1.解答 山本宣治

解説 やや難。「山宣」でわかる人はわかるが、 「京都で生まれ」、「産児調節の普及」、「労農党に加盟」「第1回の普通選挙」で当選、「神田の宿舎」で「右翼の手で刺殺」といったあたりから社会運動家の山本宣治を導きたい。しかし全く掲載されていない教科書もあり、難しかったであろう。

問2.解答 a:1889 b:大日本帝国憲

解説 「翌年に教育勅語が出される」とあるので、空欄aは1889年が当てはまる。教育勅語の年代を覚えていなくても、教育勅語が出される前に制定された法で漢字6字、とくれば大日本帝国憲法が判断できる。大日本帝国憲法が制定された年代は流石に分かりたい。

問3.解答 忠君愛国思想を基盤とした。

解説 「教育勅語」の特徴を簡潔に、ということで、忠君愛国について触れたらよいだろう。明治期以降の天皇制の強化を支えていった。

問4.解答 ウ➝イ➝エ➝ア

解説 ウの「国会開設をめぐる政変」とは明治十四年の政変であり、1881年の出来事である。年代が分からずとも、内閣制度が誕生する前と分かれば良い。イの「黒田清隆内閣」は大日本帝国憲法制定時の内閣であり、1889年頃のことである。エの「隈板内閣」が組織されるのは日清戦争後であり、1898年のことである。アの「二十一か条の要求」は第一次世界大戦中に出されており、1915年の事である。年代を覚えるより、大きな出来事との因果関係で時期を判断したい。

問5.解答 19~24歳:ウ・オ 24~32歳:ア・エ

解説 問1で山宣の誕生が1889年と分かっていれば、19~24歳とは1908~1913年であり、24~32歳は1913~1921年である。アの石井・ランシング協定は第一次世界大戦中の1917年、イの桂・タフト協定は日露戦争後の1905年、ウの韓国併合条約は日露戦争後の1910年、エのシベリア出兵は第一次世界大戦中の1918年、オの辛亥革命は第一次世界大戦前の1911年、カの日ソ基本条約は加藤高明内閣の1925年、キの排日移民法はやや難しいが、第一次世界大戦後に白人主義の高まったアメリカで1924年に成立、クの北京議定書は日露戦争前の1901年に締結された。

問6.解答 貧しい中で子どもが増えると生活がより貧しくなるため、労働者や農民に避妊の方法を教え、子どもの数を抑えて貧困を食い止めること。

解説 設問の要求は「産児調節(産児制限)運動がめざしたもの」のついて説明すること。「産児調節」とは初めて知った受験生も多いだろうが、資料中に「貧しい中での子だくさんは、生活をより貧しくしますから、労働者や農民は、できたら避妊の方法を知りたかった」「このようなニーズを感知」とあり、貧しくならないように「産児」を「調節」したことだとわかる。

問7.解答 清浦圭吾が超然内閣を組織すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の三党が第二次護憲運動を起こした。清浦内閣は議会を解散して総選挙に臨んだが、護憲三派が圧勝し、憲政会の加藤高明を首班とした内閣が成立し、1925年に普通選挙法を成立させた。

解説 設問の要求は普通選挙法が実現するまでの経緯を説明すること。どこまで説明したらよいか悩むところではあるが、解答では第二次護憲運動以降の経緯を説明した。第一次世界大戦後に社会運動が盛んになる中、普通選挙運動も盛り上がっていったが、原敬内閣では納税資格を引き下げただけで終わったことについても触れても良いかもしれない。

問8.解答 田中義一

解説 「1929年」の「治安維持法改悪」と言えば、田中義一内閣時に最高刑を死刑・無期とし、協力者も処罰可能とした件である。

問9.解答 軍隊が強い発言力を持った軍国主義・国家総動員法による物資動員の戦時統制・国民精神総動員運動による国家主義の推進・産業報国会の結成による労資一体の国策推進・大政翼賛会による翼賛体制・隣組の相互監視による全体主義・国民学校による国家主義的教育など

解説 設問の要求は「日本ファシズム体制」の特徴を箇条書きで列挙すること。「思いつくこと」とあるように、これもオープンクエスチョンで正解は1つではない問題。ただし何でもありというわけではなく、「日本が敗戦するまでの非民主的な支配体制」と説明もあり、これに沿った内容を列挙すればよい。書けば書くほど現在の社会との類似点が多く出てくるかもしれないが。


以上で終わり。予備校の解答などが見当たらなかったので、ダブルチェックが出来ていないので間違えがあればすみません。基本的な問題からマニアックな問題まで揃っていましたが、なんだか少し物足りない印象を受けました。

さて次回は東京学芸大学の世界史ですね。

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