ステレオタイプを助長しない表現
※この記事における「表現」は「広告や公共の場、公的機関における表現」のことを言う。
ステレオタイプとは、特定の文化によってあらかじめ類型化され、社会的に共有された固定的な観念ないしイメージのことである(コトバンクより)。
これまでにあったジェンダーの観点での炎上騒ぎなどで言われるように、近年は「ステレオタイプを助長しない表現」が求められているらしい。
なんでも、女性が性的に強調されていたり家庭的な役割を担っていたりする表現は「〇〇とはそういうものである」、「〇〇はこうあるべきだ」というメッセージを発しており、ステレオタイプを助長するんだとか。
これに対して個人的に思ったのが、「そんな緩い基準でステレオタイプ助長認定していたら、ステレオタイプを助長しない表現なんてないのでは?」ということ。
明言されているわけでもないのに、女性が表現に出てきただけで「女性とはそういうものである」、「女性はこうあるべきだ」などのメッセージを受け取ってしまうのであれば、一体どんな表現ならステレオタイプを助長しないというのだろう。
(複数人登場させるにしても)髪型・顔・体型・ファッション・職業等あらゆる女性を網羅するのは現実的に不可能であり、この奇妙な緩い基準の下では女性表現は必ず何らかのステレオタイプを助長することになってしまうのではないか。
(基準が不明だが)「性的に強調されていない」女性表現があったとして、それは「女性は性的ではない」、「女性は性的でない存在であるべきだ」という別のステレオタイプを助長するのではないか。
同様に、結婚後も(または結婚せずに)バリバリ働く女性を表現することは「女性もバリバリ働くべきだ」というこれまた別のステレオタイプを助長するのではないか。
「女性は性的でない存在であるべきだ」は「女性たる者清純、貞淑であれ」というのに近く、これはこれで昔から社会的に共有されている固定観念である。
また、「女性もバリバリ働くべきだ」は近年のジェンダー平等の流れで社会的に共有されているイメージのひとつである。
上で挙げた定義に照らすとどちらも立派なステレオタイプと言えるし、どちらも一定数の女性を傷付けるものである。
それにもかかわらず、これらの表現からは「〇〇とはそういうものである」、「〇〇はこうあるべきだ」というメッセージを受け取らないというのは不自然だし、不誠実だろう。
都合のいい恣意的な繊細さといったところか。
そのような態度は、ステレオタイプを助長しないどころかむしろ「助長してもいいステレオタイプ」を選別しているように見える。
そしてさらに思ったのが、「対応として求めるのが表現の修正や取下げっておかしくないか?」ということ。
元がどんな表現だったとしても「批判して表現を修正・取下げさせる」方がよっぽどステレオタイプを助長するだろう。
批判によって女性の描かれ方を違う方向性に"矯正"するという行為は、皮肉にも「女性とはそういうものである」、「女性はこうあるべきだ」を体現してしまっている。
同様に、批判によって元の女性表現を取り下げさせることはまさに「女性とはそういうものではない」、「女性はこうであってはいけない」を体現してしまう。
全ての表現に「※こうである、こうであるべきということではありません」のような注釈を付けるなどの提案(これはこれで色々思うところはあるが)をするでもなく、ただ表現の修正や取下げを求めるというのでは、ステレオタイプと関係なく単に自分の嫌いな表現を消したいだけではないかと勘繰ってしまう。
これは非ポリコレ→ポリコレの修正だけでなく、ポリコレ→非ポリコレの修正も同じ。どちらもまさに多様性の否定である。
ここまで散々他人の土俵に乗っていたが、自分の本来の考えは別にある。
ある描かれ方をしていることと、「〇〇とはそういうものである」、「〇〇はこうあるべきだ」の間にはかなり距離がある、と。
自分は、基本的な女性表現の位置付けは「こんな女性がいたら魅力的だよねという一例」、「実際にいるであろう女性の一例」などだろうと考えている。
そのため、ただの表現がステレオタイプを助長するとはそもそも思っていない。それに、上述のとおり、いちいちステレオタイプ助長認定していたらキリがないし、整合性も取れない。
ステレオタイプ助長認定勢は頭の中でどう整理しているのだろう。
ある種の表現を描かれてもいない決めつけ・べき論と受け取るのは正直どうかと思うのだが、本当にそう受け取ってしまう人がいるのならさぞかし生き辛かろう。ある意味で同情もするし、そんな「呪い」が解けることを願っている。
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