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弱者の味方ではなく

普段ネットなどを眺めていると、一部の人たちは「強者(とされている者)には何をしてもいい」的なことを考えているように見える。

そして、「とりあえず弱者(とされている者)の味方でいよう」と考えているように見える(とにかく弱者の側に付くと公言している人を実際に見たことがある)。

例としては「マイノリティ→マジョリティのものは差別ではないから問題ない」という主張、政府・与党及びその政治家に対する罵詈雑言、無理筋な女性擁護・男性叩きなど。
これらを目の当たりにして、自分は弱者か強者かを判断軸にしてはいけないと思い至った。

自分は「弱者の味方」ではなく「筋が通っている者の味方」でありたい。
思考停止せず、どちらの言い分に筋が通っているかその都度考えるようにしている。

世の中は、強者が弱者を理不尽に踏みつける構図ばかりではない。
自分は弱者が強者に不当に虐げられていたら弱者の味方をし、強者が弱者に不当に集られていたら強者の味方をする
「弱者(とされている者)」だからって不当な主張や要求が通るような社会になってほしくない。既になっている気もするが


別の言い方をすると、「えせ同和っぽいのには反対」という感じだろうか。

「えせ同和行為」の「えせ」とは、「似非」と書きます。「似てはいるが本物ではない」という意味です。「同和問題の解決は国民的課題である」などの大義名分で、同和問題の解決に努力しているように装い、不当な寄付を募ったり、高額な図書の購入を迫ったり、企業や行政機関などに不当な要求を行うことを言います。
「えせ同和行為」を放置することは、差別解消に真摯に取り組んでいる団体や同和関係者に対するイメージを著しく損ねるばかりでなく、市民が同和問題に対する誤った認識をもつことにつながります。その結果、同和問題の解決を大きく遅らせることになります。
(岡山市のページから引用)

上の文章で、同和問題のところを女性差別、LGBT差別、障害者差別、ヘイトスピーチ、レイシズム、ファシズムなどに置き換えても割としっくり来る。

あくまで自分の認識に過ぎないが、フェミニストにしてもLGBT活動家にしても人権団体にしても反差別団体にしてもその他ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ)を重視する人たちにしても、一部の「弱者の味方」たちは立ち回りがえせ同和っぽいのである。

なお、「えせ同和っぽい」という言い方は訴訟等のリスクが高そうなので、個人名や団体名の例示は控える。Twitterを眺めていると「具体例」が観測できるかもしれない。



(余談)
「弱者の味方」たちは自分自身が当事者になった場合どうするのだろう。
自身が弱者から不当な要求をされて「不当だから却下」とするのならその人はもはや「弱者の味方」ではない。
ちゃんと「弱者の味方」をするのだろうか?それとも自分こそが弱者だと言い張るのだろうか?



 あとは、別の論点として「そもそもそれ弱者か?」というのもある。

たとえ筋が通っていないものに対してでも、「弱者」側の言動に賛同しなかったり「被害者」側の言動に疑義を挟んだりすると、差別主義者認定されたり二次加害だセカンドレイプだと非難されたりすることがある。
場合によっては、誹謗中傷と混同されてか本人が法的措置をチラつかせることもあるようだ。

賛同しないことが許されない人物、疑義を挟んではいけない人物……こういう人のことを何て言うんだっけ?
……何というか、社会問題においても個別のトラブルにおいても「弱者」や「被害者」という立場は強過ぎるのである。

「被害」のはずが、最終的にどっちもどっちだったり「いやむしろ……」となったりする事例をこれまでに幾度となく見てきた。

このような経験や「弱者」「被害者」の権力性を踏まえ、「弱者による『被害の告発』」系を鵜呑みにすることに自分はどうしても慎重になってしまう。

たぶんこれは、政府の言うことを何でも鵜呑みにはしないのと似た感覚だと思う。
事実関係が明確になってきたら話は別だが、「権力者」の言うことだし……と、言い分が全て正確だったら申し訳ないと思いつつも最初は大本営発表のように受け止めてしまうのだ。

ある人が言っていた。論理で武装する必要のない者、筋が通っていなくても話を聞いてもらえて主張や要求を通せる者こそが強者であると。その通りだと思う。
そしてこれには一般的に強者とされている者だけでなく、「弱者」や「被害者」も当てはまる。

そういう意味で、自分も弱者の味方に近い部分があるのだろうか?
筋を通さなければ受け入れてもらえない弱者たちを擁護する、という風に。


まあ、自分が味方しているのが弱者かどうかというのは別にどうでもいい。
弱者だから味方するわけじゃない。筋が通っている者の味方をするだけ。

弱者の側に付かないことが非難されがちなこの社会で、「誰の言動か」ではなく「どんな言動か」を重視するよう心がけたい。
権威主義と反権威主義どちらからも距離を取り、なるべく立場や肩書き、属性などで判断しない人間でありたい。

ただ、どちらに筋が通っているか、どちらもある程度筋が通っているのか、どちらも筋が通っていないのか、その都度考え判断するのは結局自分であり、時には判断を誤ってしまうこともあるだろう。

だからせめて自分と異なる考えから目を背けるようなことはせず、反論できなければその考えを取り入れるようなスタンスでいようと思う。

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