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女尊男卑な男性優位社会

自分は今の社会を女尊男卑と捉えているのだが、そうではないとする者もそれなりに見かける。彼らの意見を見聞きするにつけ、「男尊女卑」という概念そのものに対して自分と彼らには認識のズレがあるように思った。

まず、そもそもの定義がどうなっているかというと、次のとおり。

⚫︎男尊女卑…男性を重くみて、女性を軽んじること。また、そのような考え方や風習。⇔女尊男卑。
⚫︎女尊男卑…女性を男性より尊いとすること。また、そのような社会習慣。⇔男尊女卑。

(コトバンク)

なんできれいな反転になっていないんだ
上記の定義からも分かるように、男尊女卑や女尊男卑における「尊」「卑」は形容詞や形容動詞というよりも動詞や動名詞に近い。すなわち、優位・劣位にあることではなく尊ぶ・卑しむことを指している。

冒頭で述べた認識のズレというのは、

  • いわゆる「男性優位」であることをもって「男尊女卑」とみなしてしまっているのではないか

  • 「まだ男性優位だから」として女性に下駄を履かせることが女尊男卑と認識できていないのではないか

ということ。おそらくこの辺りについての認識が共有できていない。


「男性が優位にある」「女性が劣位にある」というのは男尊女卑ではない。「男性を優位に押し上げようとする」「女性を劣位に押し下げようとする」ことこそが男尊女卑で、その逆も然り。
「下駄」はまさにその典型例。性別により下駄を履かせる……性別による優遇や冷遇を止める以上のことをする時点で結果的な優位劣位にかかわらず男尊女卑・女尊男卑に該当する。

そして、性別により下駄を履かせるというのは、性別を理由に不当な取り扱いをし(主に履いていない方の)権利利益を侵害する……紛れもない性差別である。かつては男性が下駄を履いており、現在は女性が下駄を履いている。

(参考:過去記事)

男性優位というのは基本的に「結果」である。
過程に性差別があったらその性差別を解消すればよいのであって、「男性優位」それ自体は性差別ではないし、問題でもない。これはもちろん女性優位の場合も同様。

仮に男性優位に伴って女性固有の事情への理解が不足して……というのが困るのなら、「理解」の部分を改善すればいいだけ。なにも性差別に手を染めずともよい。

性差別がなければ、性別による優遇も冷遇もなければ、本来の比率に近づいていく。その結果男女比が同程度だろうが偏っていようがそれが平等というもの。
過程に性差別がない男性優位や女性優位に良いも悪いもない。強いて言えば、性差別をなくすその過程こそが好ましいし、性差別をなくした結果であれば50:50だろうが100:0だろうがそれは好ましい。


上記のとおり男性優位と男尊女卑は別の事象であり、必ずしも両立しない。「尊」してもなお劣位なことはあり得るし、「卑」してもなお優位なことだってあり得る。平等でない社会として、
・男尊女卑かつ男性優位
・女尊男卑かつ男性優位
・男尊女卑かつ女性優位
・女尊男卑かつ女性優位
などがそれぞれあり得る。

では今の社会はどうか。
確かに概ね男性の方が地位や収入なんかが高い。上だけを見ればなおさらそうだろう。他方、国家ぐるみで女性の活躍が推進されており、女性に下駄を履かせることで相対的に男性の活躍は抑制されているのが現状。
……すなわち、今の社会は女尊男卑な男性優位社会といえる

現在の男性優位は過去の男尊女卑が一因だとは思うが、それは現在女尊男卑としていい理由にはならない。利益を得る(得た)者と割を食う(食った)者がズレており、原状回復にも補填にもなっていない。新たに性差別をしてどうする。


男尊女卑・女尊男卑と男性優位・女性優位、どちらを比較的許容するのかというのは、機会平等と結果平等どちらを優先するか、そして性差別を許容するかどうかということでもある。
まあその結果平等にしても、「下」側についても男性と平等にしようとしているかというと……。

  • 男尊女卑・女尊男卑を許容し、男性優位・女性優位を許容しない
    →性差別があり結果平等な社会

  • 男性優位・女性優位を許容し、男尊女卑・女尊男卑を許容しない
    →性差別がなく機会平等な社会

性差別のない社会を目指すのなら必然的に後者になる。
なお、両方許容しないというのはおそらく不可能で、両方程々に許容するという立場ならあり得るといったところ。

自分は男性優位・女性優位を許容し、男尊女卑・女尊男卑を許容しない寄りの考え。概して機会平等を損なうような差別には反対なので、そのような社会を目指したい(完全な機会平等は不可能だろうが……)。

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