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ランドマーク(116)

 わたしは一度通り抜けた雲の中を落ちていった。世界と世界の間に挟まったのだと思う。落下を続けるうちに、上下の感覚が曖昧になっていった。一度まっすぐに上っていった道程を、今度は生身のままで引き返していく。天からも地上からも、わたしという存在が拒絶されてしまったようだ。わたしの居場所は、かつては白い部屋だった。そう、今朝までは。また元通り、すべてが終わってから、またあの掛け布団に潜り込んで、鬱々とした夢を見るのだ。幸せだったのだ。十分に。延々と続く日常に沿って少しずつ死へと近付いていく、そんな吐き気のするような生活でさえ。

 延びた日常がぷっつりと叩き切られる、そんなこと思いもしなかった。いや、想像の範疇にはあった。血の色が変わって、呼吸がずっと楽になって、母をはじめて愛おしいと思った。外部によって意図的に引き起こされたそれらによってさえ、わたしは大きく変化したとは思わなかった。意識の連続性は保たれたままだし、なによりもわたしは自分自身をわたしだと認識したままだった。気持ち悪いとも思わず、おぞましいものとも感じることなく、わたしはわたしから離れることはなかった。

 ただ、予感はあった。あの「塔」を通って、そしてその先の船に乗り込んで、火星へと向かったなら。宇宙遊泳を始めたときか、星の地表に降り立ったときか、もしくは帰り道、大気圏で強烈な揺れを味わっているときか。とにかく、これから先の「旅」を経て、わたしは大きく変わるだろう、そういう確信があった。もしかするとわたしはわたしでなくなるかも知れないな。「壁」ができるよりも昔、人々が異国に強く思いを馳せたように、わたしは別の自分自身を探そうとしていたのだ。

 でも、こんな形で終わるのはあんまりだ。覚悟なんてなかった。「塔」の目指す先はもっと上、だのに、こんなところで。

 雲を抜ける直前、遠くに塔が見えた。わたしが落ちていく大気の層は、あれにとっては単なる通過点だった。見つからない。誰も、どこにも。

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