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ランドマーク(137)

海良2

  睫毛をかすめる風から温度を感じなくなり、次第に陽は短くなっていった。落葉樹はまだまだその葉を落とそうとはせず、学生達が吐き出した二酸化炭素を光合成へと消費している。季節を除けば、なにひとつ、代わり映えのしない日々だった。放っておけば髪と爪ばかり伸びるくせに、わたしの内面は身長と一緒に成長を止めてしまった。授業には身が入らず、暇さえあれば屋上へと通った。海良さんと顔を合わせる日にかぎって、屋上はわたしたち二人の貸し切りになっていた。

「うそ、それ、見間違いだって」

 飛び降りのことを尋ねると、海良さんは何でもないような顔でそう言った。笑顔さえ浮かべることなく、軽くあしらうような、そんな声色で。
 白昼夢とはこのことだろうか。わたしは確かに、海良さんがフェンスを跳び越える一部始終を目撃した。どこからが、どこまでが現実だったのだろう。それともこの人は、初対面のわたしをからかうつもりで、大がかりなトリックをやってのけたのだろうか。
 わたしは海良さんに対する不信感を拭えずにいた。

「サンドイッチ、自分で作ってるんだ」

 キャンバスが置かれている日もあれば、そうでない日もあった。

「暇なので」
 
 キャンバスが置かれているとき、そこには決まって、あの山と〈塔〉があった。その絵を目にするたび、わたしはどうしてか赦されたような心地になるのだった。わたしたちはもっぱら山の話をした。この街に住む多くの人間と同じように、海良さんはあの山に登ったことがなかった。じゃあどうしてあの山を描くんですか、とわたしは海良さんに聞いてみた。

「〈塔〉を描きたくてさ。でも、あれはあの山と別々に描いちゃいけないと思う。だから、一緒に描くんだ」

 それでわたしははっとした。ああ、この人はあの山よりも〈塔〉が先に来てるんだ、わたしは山があってそれから〈塔〉ができたと思ってるから、優先順位が逆転してる。絵を見てみるとなるほど、絵に描かれた雪山の白色も、〈塔〉に寄せた質感をしている。無機質な姿をさらす〈塔〉の下に山が、それを支える土台としてそびえていた。表情のない、人の立ち入りをきっぱりと拒むような白。それはまるで宇宙人が一晩で作り上げたピラミッドみたいだった。

 わたしは冬山に登ったことがない。理由はただ、危険だからだ。滑落や遭難は低体温症をもたらす。雪崩に巻き込まれれば窒息のおそれもある。運良く生還できたとして、凍傷になった手足の指を切り落とすことになった、というのはよくある話だ。五体満足な祖母でさえ、その頬は赤黒い色をしていた。それがしもやけではなく凍傷の跡なのだと、数年前にわたしは母から教えてもらった。

 お母さんのお母さんはね、一回だけ遭難したの。ガイド仲間と厳冬期の山に、ああ、あの山じゃなくて、そのひとつ向こうにあるやつね。そうたぶんそれ。右奥に見えるてっぺんの平たいやつ。稜線に出たら緩いんだけど、冬はその手前がちょっときつい。登山者がいないから道もわかりにくいし、そうそう、その頃はまだARグラスの性能も大したことなかったから、氷点下でバッテリーがすぐ駄目になっちゃって。発煙筒も持ってなかったから、夜はヘッドランプで照らしながら待つしかないし、昼はジャケットか鏡を使ってなんとか見つけてもらうしかないでしょ。なんとかヘリで救助されたんだけど、一晩は長いからね。
 国道沿いの『もしもしピット』に車を止めて、わたしと母はあの山を一望していた。その日は風が強くて、頬に触れる冷たさがすこし恐ろしかった。はじめて、わたしは山を怖いと感じた。消えない傷を作ってもなお、山へ足を踏み入れる人間がいる。そして、わたしにはその人間の血が流れている。

 だったら冬山にしたのはどうしてですかと聞き返すと、海良さんはああ、と言って口を開いた。 

「〈塔〉は冬に運用されることが想定されてたんだって。あんな大きな鉄の塊だから、熱膨張の影響は少なくないし、そのこともあって冷涼な高山気候が選ばれたんだけど、まあ限度があるよね。登る分には夏場のほうが簡単でも、まあ〈塔〉までの輸送はヘリコプターがメインだったし」海良さんはぱちぱちと何度か瞬きをした。「だから、冬」
「冬じゃなくても、冬山って描けるもんなんですか」
「まあ、そのへんはいいんだよ。それに、冬まで待ってると、ね。わたしは今、この絵を描きたいと思ったんだ」
「なるほど」とわたしは言った。若者らしくていいですね、衝動に任せるって素敵ですね。そんな言葉を飲み込んで、
「わたしも少しだけ美術部にいたんですけど、山を描く人、見たことなかったです」
「そっか、なんでだろうね」
「興味ないんでしょうか、〈塔〉のこともあって触れづらいし」

 サンドイッチをひとくち、しなびたレタスから染み出た汁がじわりと口内へ広がった。不快ではなかったが、その苦みはマヨネーズでも消えなかった。そのひとかたまりを嚥下してから、わたしは口の渇きに気づいた。喉に小さな粘土が張り付いて、うまく剥がれないような感覚。呼吸をするために鼻から取り入れた空気は想像よりも冷たくて、わたしは思わず咳き込んでしまう。
 大丈夫、という声のほうへ俯きがちなままで顔を向けると、海良さんがこちらをのぞき込んでいた。急に縮まった距離へ、正確には近付いた海良さんの顔へ、わたしは気後れする。ひゅっ、と喉から変な声が漏れて、それからまたしばらく、わたしは屈んで咳をしていた。かたわらには海良さんがいて、涙目になりながらそちらを見れば、目尻をわずかに上げながら鼻を鳴らした。「なにしてんの、もう」
 
 呼吸がやっと落ち着くまでに、ずいぶんかかった。コンクリートに乾いた咳払いが反響して、それはすぐ空に向かって抜けていく。きっとどこまでもどこまでも、わずかに空気を震わせながら、届くのだろう。でもそれはわたしの感知できるものではない。天高く、馬肥ゆる、うそ、わたしの声は彼方まで駆けていくのに、わたしの身体は信じられないほど重たくて、世界の狭さに飽き飽きしてる。いや、世界に、じゃなくて、わたし自身に。天井を、扉を、壁を取り払うことのできない、わたしの話だ。

「ごめんなさい、大丈夫です」

 それからのサンドイッチはぜんぜんおいしくなかった。味はいつもと変わらず悪くなかったのに、嫌なことを思い出してしまったような気分になって、だから海良さんとの会話もどこか身が入らなかった。いつもと同じような、山の話、学校の話、それからちょっとだけ、未来の話とかもしたような気がする。空が高く感じられるのは、じめじめした夏の暑さがなくなって、空気が軽く感じられたからじゃないかとか、この時期のコンクリートはひんやりして気持ちいいから裸足になってみなよとか、そういうことは覚えている。

 わたしはその提案に乗ってみることにしたのだった。月曜朝の憂鬱な気持ちをシャワーで無理矢理に洗い流すみたいに、自分に関するネガティブな感情、それとネガティブな自分自身も、どこかの隅へと押しやってしまいたかった。ロゴも何もないくるぶし丈のリブソックスを脱いでしまってからはじめて、その締め付けが窮屈だったことに気づく。これもひとつの、壁だっただろうか。「わあ」と足裏の感触に声を上げた。血管が集まっているから足つぼを刺激するのは身体にいいと聞いたことがある。なるほど、わたしの足も敏感だった。

「どう」と声のするほうを見てみれば、海良さんも靴下を脱ぎ捨てていた。
「コンクリート、ざらざらしてるね。滑ったら血が出そう」
「日が出ていても意外に冷たいもんなんですね」

 海良さんの素足が目に入って、その足の甲にわずかな間、わたしは視線を落としていた。爪はさっき切りましたとでも言うように短く切りそろえられていて、小指から親指までが互いに押しのけ合うことなくそっと自分たちの領地を主張していた。魚の目とかタコのような皮膚のかたまりもなくて、白い肌に浮かんだ血管に、わたしは思わずぞくりとした。ちゃんと血が通っているはずなのに、別の世界から来た人みたい。太陽がない世界ではメラニンは生成されないし(たぶん)、ずっと裸足で生活していたのなら、指の骨や腱はまっすぐに育つだろう。
 海良さんは、ずっと遠くから来た人なんじゃないか。壁とか、天井とか、わたしが籠もった、その外側から。少なくともこの瞬間、わたしはそんなふうに思っていたし、そうならいいのに、と願ってもいた。

「足下にも、空が広がってるみたいです」と何食わぬ素振りでわたしは言った。心の底からそう思っていたのだけど、口に出すとそれはいささかロマンチックすぎることに気づいた。
「空と、屋上、繋がってるもんね」そう言いながらペタペタとステップを踏む、海良さんがまぶしくて、それがなおさら面映ゆかった。わたしにとっての「変」は、この人の「変」とは違う。わたしの気分は乱高下して、何度も何度も、何度も何度も、行き場のない感情に襲われる。わたしの顔にはきっと表情が張り付いたままで、世界はまた閉じていく。

 これ以上、自分についてのあれこれを考えたくはなかった。そもそも慌ただしく過ごしていたなら、自分に自分で口を出すような隙間はそんなにしょっちゅう見つかるはずはない。いつから内省的になってしまったのだろう。憂鬱に押し潰されるすんでの所で踏みとどまり、脱ぎ散らかしていた上履きの片方を掴んだ。爪先だったか踵だったか、どこを掴んでいたかは忘れてしまった。改めて意識してみるとそれはあっけないほどに軽くて、なんだわたしはこんなものに抑圧されていたのかと、まるで上履きこそがわたしの精神をぐらつかせる全てであるかのように見えてきた。
 ぐん、と振りかぶると、力任せにそれを宙へと放った。なるべく遠くまで、飛んでいけばいい。妙にスナップが利いた上履きは、ふらふらと回転しながらフェンスを越え、屋上から飛び出し、そして視界から消えた。校庭と校舎の間、タータンかアスファルトのどちらかに向かって、それは落ちていった。側面の青いラインが数度、太陽光を反射して、そればかり記憶に残っている。そういえば、海良さんも、こんな風にいなくなったのだった。上履きと人間を重ねるのは無理のようにも思えたけれど、想像してみるとすんなりと腑に落ちた。

 なるほど、ああやって。

 海良さんは「ああ」なんて感嘆か呆れかよく分からないような声を漏らして、フェンス越しのどこか遠くを見つめていた。海良さんが本当に落ちたのなら、その記憶があるのなら。海良さんのまなざしが何を表すのか、そんな疑問も遠くへ飛んでいくように思えた。

「なにしてんの」海良さんはそう言って苦笑する。
「そういう日も、あるじゃないですか」
「嫌なこととか」
「まあ、そんなもんです」

 この調子でふわふわとはぐらかすような会話を続けていれば、そのうちに陽は暮れてしまうだろう。雲の流れる速度はいつもより速い。わたしを乗せた地球は今日に限って速く回っている、そう思えて仕方がなかった。これで終わりなんて、もったいないよ。

「海良さん」
「梛、でいいよ、同じ名字なんだし」
「・・・・・・梛、さん」
「うん」
「友達が、いなくなりました」
「・・・・・・不登校?」

 ここまできて、ためらいの気持ちが再び頭をもたげた。どうせ何も変わらず、わたしの無能さを露呈するばかり。何もなかったことになって、梛さんは興味なんか無くて、心はまた、狭苦しい枠の内側へ押し込められる。
 わたしが俯きかけたときのことだった。

「うわあ!!」

 目の前の声に驚き顔を上げると、海良、梛さんが上履きを放り投げていた。下手投げのせいで放物線の傾きはやけに大きく、中空で一瞬、静止したように見えた。ジェットコースターが滑り落ちる前の空白みたいで、それを眺めるわたしも息を呑んだ。

「どっちが遠くまで飛んだかな」

 よく笑う人だと思った。屋上に好んで通うような人間は何かを諦めたような目をしているはずだ、というのはわたしの偏見に過ぎなかった。少しぎこちなくも見える梛さんの笑みの、つり上げた口角が愛おしかった。同じ場面も、同じ言葉も、同じ空気も、二度と、ない。

「話して、いや、聞かせて」梛さんはわたしにそう促す。つかまえて。
「山に、行ったんです。あの山に」一息ついてわたしはそう答えた。誰にも話さなかった、舘林とわたしが体験した一部始終を聞かせるために。
「誰かに相談したの? 警察は」わたしが話し終えるのを待って、梛さんはそう言った。
「誰に相談していいのか、分からなかったんです」
「でもそれじゃ、何も変わらないままだよね。時間が経てば経つほど、その友達の安全は保証されなくなっていく」

 口調は相変わらず柔らかいままだったが、口にする内容はわたしにとって心地の良いものではなかった。梛さんの笑みに心を許した自分が、なんだか馬鹿らしい。今まで嫌というほど自分自身へぶつけてきた自己批判を、改めて文字起こしされ読み上げられるような感覚。反論の余地はどこにもなかった。

 わたしは間違っていた。

 風が止んでいた。強く吹けば良いのに。梛さんが言葉を継ぐ前に、涙腺が緩んだ。まぶたがわずかに潤って、そのことがわたしをさらに落ち込ませる。わたしの怠惰を集めたような、汚らしい涙だ。

「ここで終わりにしよう」

 次の言葉は、わたしの予想していたものとはまったく異なっていた。

「もし、えーと、海良」
「・・・・・・夏来、です」
「夏来? さん? が何もしなかったせいで、その友達が取り返しの付かないところに行っちゃったんなら、その選択の責任はあなたにある」
「・・・・・・はい」
「背負う覚悟があろうが、なかろうが、結果からは逃れられない」
「分かっています」

 舘林の顔が浮かぶたびに、わたしはわたしを責め立てていた。何もできないのではなく、何もしない己を。そう気づいた瞬間にでも、飛び起きて走り出す必要があった。これ以上手遅れにしないために。
 浅い呼吸を繰り返すわたしの背中に、梛さんの手が置かれた。

「探しに行かなきゃね」

 わたしはその言葉を待っていたのだと思う。どこからがわたしの意志になるのだろう。わたしがどれだけ強く願ったところで、わたしの言葉がわたしを動かすことはない。だからこそ、わたしは梛さんを必要としていた。梛さんの行動がどれだけ突飛なものであっても、つまるところそれは大して意味のないことだった。
 梛さんを媒介として、わたしはわたしの言葉を帰結させようとしていた。だれかの口を借りて、自分自身へ言い聞かせていた。

 だから、ここからの記録は、台本だ。わたしが願っていた物語と、いくつかのサプライズ。
 わたしはまた、あの山へ向かう。ふたり、ひとり、ふたり、ふたり。

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