見出し画像

ランドマーク(135)

 三つ目の選択肢は考えるまでもなかった。舘林と合流することだ。理屈とか論理とか、そんなものよりも今のわたしには感情が必要だった。あれ? 足を止めないために、この震えを止めるために。わたしは二つ目を選んだ。
 道なき道を行く。登山という行為が一般化する遙か前の時代のこと、山へ分け入る人々は、こうして感覚を頼りに上を目指していたのだろう。ARと優れた位置情報技術のおかげで、この辺りの低高度であれば苦労は少なくなった。地形データは倒壊の前後で大きく変化してしまったため、それだけが不安材料。あいつらに、発信器かタグでも付けてくればよかった。わたしはひとまず斜め上に向かって移動する。四合目あたりで向こうの登山道に合流し、委員会を探しながら下ってくるつもりだった。もしそれより上にやつらがいたとしても、今日はひとまず引き返そう。これはわたしがわたしに課した唯一の制約だった。急いで家を飛び出してきたせいで、夜を越すだけの準備はしてきていない。舘林に頼るなんて、万に一つもありえなかった。

「今、どこだ」通知音と共にメッセージ。こいつのことを忘れたままでいたかった。
「位置情報、送って」
「そっち行くから」

 立て続けのメッセージに、わたしは思わず通信拒否のコマンドを送信していた。これで、わたしが許可をするまで舘林からの通信は届かない。

 さて。憎たらしいほどに山は動かない。太陽を覆い隠すほどに木々が生い茂っていたころのことを、わたしはよく覚えていなかった。母さんにはこの空、見えなかったのかな。わずかに思い出へ浸る。はじめての登山。母が言うには、わたしは二歳だった。

 夕食の席か自動車の助手席。わたしと母の会話といったら、そのどちらかで交わされることがほとんどだった。昔話は、たぶん、夜ご飯のほう。

「帰りは背負って行ったんだよ、足が疲れたって言うから」

 何度同じ話を聴いたか分からない。年を取ると記憶力が弱くなるから、と母はわたしがそのことを指摘するたびに言った。でも、本当はそうじゃなかったんだと思う。

「重くなかったの」
「登りは歌いながら走ってて、転ばないか心配でさあ」

 母はわたしに話すことで、自分の記憶を確かなものにしたかったんだ。忘れないように。

「また行きたいね、ふたりでさ」

 歩こうと決意するよりも先に、足は動き始めている。どうしたってやめられない。わたしの本能が、上へ、上へとわたしを急かす。駄目。登山道をなぞっていては、いつまでも調査会には突き当たらない。グラスに表示された地図によると、もう一方、つまり調査会がいるはずの登山道まではおおよそ一キロ。ただしこれは水平距離の話であって、実際には沢だの尾根の取り付きだのを越えていく必要がある。つまり、起伏の分だけ垂直方向への移動距離が大きくなるわけ。

 しゃあないなあ、とわざとらしく口に出してから、わたしは茂みへ足を踏み入れていく。いわゆる藪漕ぎというやつだ。笹の葉さらさら、とは言うが、そんなに体のいいもんじゃない。葉の側面が素肌に擦れれば、あっという間に血がにじむ。よかったよ、寝間着のまま飛び出してこなくて。
 登って、下りて、涸れ沢をまたいで、まだ藪へ分け入って、一キロなんて家から学校までよりも近いはずなのに、やっぱり山での距離感は全く当てにならない。

 待てよ。もう一度地図を確認する。やってしまった。このままでは登山道どころか、登山口にさえたどり着かない。
 わたしは五十メートル分の標高差を考慮し忘れていた。つまり、ただ横へ横へと移動するのではなく、水平距離で一キロメートルを移動する間に五十メートル分だけ登る必要があったのだ。今から上を目指したところで、はたして調査会の先回りをすることはできるだろうか。

 しばし、途方に暮れていた。こんなにくだらないミスで足が止まってしまうものかと、我ながら驚いていたのだった。舘林からの連絡を受け、勢いにまかせて家を飛び出しここまできた。こんこんと湧き出てくるように思われていたはずの衝動はもうない。かわりに、きゅう、きゅう、と耳鳴りがする。わたしの身体の内側から、頭蓋の裏側を擦り上げるような音が鳴っている。

 わたしは一体、何をしようとしているのだろう?

 ぎゅるぎゅる、ぎゃりぎゃり、けたたましい機械音ではたと我に返った。チェーンソーの音だろうか。静寂を切り裂く、というにはやや鈍い、突然の轟音だった。まるで空が塗りつぶされるように、瞬く間にわたしの五感のうち一つがいっぱいになる。
 チェーンソー、だとしたら、何かを切断しようとしていることになる。山で切断するものなんて一つに決まっている。木だ。〈塔〉が倒れこの山がはげ上がってから、植生の回復に寄与している低木。それを、なぜ?

 そこでわたしは強く後ろへと引っ張られる。わたしは短い声を漏らしたが、重たい駆動音はそれをかき消してくれた。リュックを掴まれたせいで、尻餅をつくように後ろへと倒れ込む。わたしは自分がもう一つ、何かを忘れていたことに気が付く。機械音が聞こえるということは、調査会はすぐそこだ。

「うええ」わたしは情けない声を漏らして尻餅をついた。恐れや緊張や孤独感や、いろんなものがない交ぜになった何かが、少しあふれた。

「なんで、コール、返さないんだよ」

 こいつにだけは、こんな姿を見られたくなかった。

「向こうに見つかってたら、大変だった」

 舘林は普段よりきわめて慎重に、それでいて朗らかさを失わない口調で、わたしに向かって言葉を吐いている。

「うるさい」
「なんだよ」

 わたしは押し黙ることにした。はやく、どっか行ってくれ。

「なあ」
「なあ」一度目は空気をかすめるような密やかさで、二度目はわずかばかりの怒気を交えて。わたしが舘林の腹の底を見透かそうと企んでいる間に、舘林はひとり話を続ける。

「さっき聞いた話だと、調査会はここに探し物をしに来てるらしい。海良、心当たり、ないか」

 わたしは体育座りのような格好で、二つの膝のあいだに顔を埋め、そこからずっと、影の差した地面を見ていた。この山のどこかに、父の遺骨、あるいは形見のようなものがあったとして、どうしてわたしはそれを探すんだろう。ろくに思い出もないはずの親の、親だったしるしを。

「幽霊、とかかな、やっぱ」
「なあ、どう思う」
「どっか、行って」
「助けたんだからさ、いいじゃん、それくらいは」

「舘林はさ」
「なに」
「なんでそんなに、こだわるの」
「こだわるって、なにを」
「・・・・・・どうして、そんなに話しかけるの」

 この世に生まれて二十年も経たないわたしたちは、どうしてここまで隔たってしまうのだろう。社交性、悲観主義、口数、遠慮、同じ学校に通っているという事実を除けば、わたしと舘林の間に共通点は何一つとしてなかった。同じ国の、同じ地方都市で、肌がヒリヒリするほどの轟音を受け止めているわたしたちは、どこで、

「そりゃあ、話しかけるだろ、こんなとこに同級生がいたら」
「わたしは、あんまり、嬉しくないかな」
「ひとつ、聞いていいか」
「ねえ」
「さっきとは別のやつ。海良、もしかしてさ、父親、『塔』に関わってたか」

 びくり、とわたしの肩が震えていた。わざとらしいほどにゆっくりと、わたしは後ろを振り返る。突然、舘林のことが恐ろしく感じられた。

「海良はいっぱいいるけどさ、確か、委員会のトップも、海良だったよなって」

 内臓を素手で優しくなで上げられているようだった。もっとも疑問を抱くべきは、わたし自身にでも調査会に対してでもなく、こいつにではなかったか?

「なんで、ここまで、舘林は、きたの」
「まだ答えを聞いてないぞ」わたしが話し終えるよりも先に、舘林がボールを投げ返す。

 観念するしかない。

「そう、責任者だった」

 一息、ふうっと舘林は呼吸をした。

「そっか、やっぱり、そうだよな」

 わたしが一度瞬きをしているあいだに、舘林の顔からは不自然な強ばりが取れていた。

「父が、死んだんだ」

 わたしの、こと?

「塔の事故でさ」
 
「お前も、そうじゃないのか」
 似たり、寄ったり。

「死んだかは、まだ」
「死んだんだ、そうだろ」
「ちがう、わたしは、分かんないから」

 本当。わかんない。父の顔すら、いまはあやふやで、ほとんど、なにも。

「骨でも見つかれば、満足かよ」
「そんな言い方、ない」
「骨でも皮でもドックタグでも、死んだ人間は戻ってこない」
「じゃあ、幽霊探しとか、肝試しって、なんのつもり。勝手に茶化しておいて」

 体温の高まりを感じるのは、日が高いからではなかった。ひた、ひた、と汗が滴っている。低木では太陽を遮ることができない。それよりも、わたしの目の前の、この人間が、じわりじわり距離を詰めてくる。わたしとわたし以外を区別するため張った干渉の薄膜を、力強く破きながら。

「それは、いいだろ」
「舘林だって一緒じゃん。言いたくなかったんでしょ」
「うるさい」
「なんでそっちが、怒ってるわけ」
「お互い様だろ」舘林はきっとこちらを一瞥する。よくできたパフォーマンスだった。

「お前の父親のせいで、こっちの父は死んだんだから」

「えっ」

 ぎゅるぎゅる、ぎゃりぎゃり、どるんどるん。チェーンソーの音に助けられた。でなきゃ、こんな沈黙、とても耐えられそうにない。

 わたしは舘林を見た。舘林はわたしを見ていなかった。音のするほう、藪を抜けた向こう、おそらく調査会の人間がいるところ。睨むでもなく、目を伏せるでもなく、舘林はまっすぐに視線を投げかけていた。
 どれが、ほんものだろう。ほんものの、舘林。

「責めてない、さっき知ったばっかりの血のつながりで、そんなことしない」

「・・・・・・ごめん」
「だから、いいって」
「そうじゃなくて。・・・・・・・誤解してた」
「今も、誤解してる」
「鬱陶しいって思ってた、なんでこんなのがわざわざ山に、来るんだろうって」
「思うよな」

 こちらへ視線を向けた舘林と、目が合った。逸らしたく、なかった。なにかに、負けてしまいそうで。

「自分だけの山だって、自分だけが、この山にとって特別な存在だって」
「そう」
「おまえのこと、嫌いだったよ」
「・・・・・・うん」
「父さんとの思い出とか、今まで独り占めしてた、このゴミみたいな景色とか、さ。踏み荒らされるみたいで」
「わたしも、そう」

 音が止んだ。こだまするのは、静寂。すぐに、わたしたちは声を潜める。

「話は、あとにしよう」そう言って舘林はわたしを手招きする。

 目的を、果たそう。

 端から見ると、いささか滑稽な隠れ方だった。調査会の会話は聞きたいが、近付けば見つかってしまう。わたしたちは音声チャネルを共有し、スイッチを入れた。ARグラスには集音機能があるので、それを使う。舘林とわたしは五人の調査会が対角線上にくるよう、その両端に当たる位置へそれぞれ移動した。こうすることで、少しでも聴覚から情報を得よう、と企んでいた。

 見えるか、と舘林の声が耳元で聞こえる。見えるわけないじゃん、と声を殺して応じる。周囲のハイマツは高いものでもせいぜい樹高一メートル五十センチといったところで、わたしと舘林はその根元へ這いつくばることにした。地味な服装でよかった。
 調査会に見つからないためには、いっとき視界を犠牲にするほかない。ハイマツ地に身体を押し込め、わたしは眼前に否応なく広がる幹をにらみ付けていた。

「なんか言ってるの、聞こえるか」
「探査・・・・・・地下・・・・・くろ・・・?」
「ああ。そうだ、こっちにも聞こえるんだった、静かに」それっきり舘林は黙った。わたしはただサイコメトリーの真似事をしたみたいでやりきれない。

 ぽつ、ぽつ、と単語が途切れ途切れに聞こえる。調査会が半径およそ二十メートル範囲のハイマツを切り倒したせいで、わたしたちはそれよりも外側に隠れて陣取らなければならない。集音は基本的に近くの会話を聞き取りやすくするための機能であって、遠くの声を無理矢理拾うためのものではない。開けっぴろげの空と風のざわめきが、調査会の会話を拡散しかき消していく。

 彼らが着ているのは、制服、というよりも作業服といったほうがいいデザインだった。五人全員が同じものを身に付けているので、役職や性格を推測することもできない。

「地下・・・・・・結果・・・・・・連絡・・・・・・が・・・・・・」

 二人ほどはシャベルを手に持っているようだった。土を掘り返すような音が聞こえる。

「死体でも埋めてるみたいだな」
「悪い冗談だね」
「もしくは、埋蔵金を探しにきたかのどっちか」

 ハイマツの根を掘り起こそうとしているのなら、シャベルだけでやり遂げるのは難しいはず。わたしたちは黙りこくって、ことの経過を待っていた。さがしもの、〈塔〉のおとしもの? 少人数で掘り起こすことができるほどのもの。もしかして。

「ねえ」舘林に語りかけるが、反応はなかった。

「聞こえてる」グラスの画面を切り替えると、音声チャネルに舘林はいなかった。逃げたのか? 不安がよぎり、わたしはゆっくりと身体を起こす。と、グラスから聞こえる調査会の声には怒気が交じっていた。

「おい・・・・・・誰・・・・・・他・・・・・・」言葉の断片からでも感情は読み取れるんだなあ、と感心しつつも、うまく状況を理解できないもどかしさに苛立ちが募る。とにかく、何かしらのトラブルが起こっていることは間違いない、はず。

 びくり、あっ、あれ、舘林?

 声がグラスから聞こえる。チャネルは接続が切れているはずなのに、どうして。

「やめ・・・・・・なんでも・・・・・・だけ・・・・・・」

 その声のくぐもりよう、ノイズ、まるで調査会の会話のようで、不安げな声色にわたしは思わず笑ってしまった。それどころじゃ、ないみたい。なるべく音が立たないようにしながら、ハイマツの隙間から顔を出す。
 舘林が組み伏せられている。二人の男に両脇から肩を地面へと押さえつけられ、舘林は身動きが取れないまま苦しげな表情を浮かべている。わたしよりいくらか体格が良いはずのあいつも、大人に比べればただの子どもだった。
 わたしの三十メートル先で舘林の唇がぱくぱくと動く。わからない、でも、目だけはものを語っている。口は調査会に向けて、目はわたしに向けて。わたしの居場所へ向けて投げた目線を見逃さずにすんだ。
「一人・・・嘘・・・って・・・った・・・おい・・・・・・」
 二人は舘林を羽交い締めに、一人は周囲を捜し回り、一人はどうやら外部へ通信しているようで、もう一人はそわそわと詰問と警戒を繰り返している。麓の登山口から応援がくれば、逃げることはますます難しくなる。

 わたしだけでも、逃げてしまおうか。
 ゆっくりと頭をもたげた感情に、わたしは倒錯していた。

 わたしが調査会の目の前へとのこのこ出て行ったところで、何かが解決するようには思えなかった。むしろ、捕まる人間が一人増えるだけ。あいつを助けるためにも、わたしは無事でいないと。

 動かなかった。足も腕も、首すらも。寒い朝の目覚めみたいに、もしくは屋上で聞く授業の予鈴みたいに、わたしは動こうとも思わなかったし、そして実際にわたしの身体は硬直していた。脳が状況を処理できずにいる。進むべきか、逃げるべきか、わたしをここに留めているのは、勇気ではなく臆病さだった。
 ついさっき腹を割ったばかりの舘林を、いくら後で助けるためとはいえ、放ってこの場を離れてしまってもいいのか。あいつは、わたしをどう思うだろう。怒るかな。呆れるかな。また、この世界は、わたしに優しくなくなっていく。全部わたしのせいで。

 遠くの舘林と、また目が合った。都合のいい考えがよぎる。もしかすると、これはそれほど大事じゃないのかも。舘林は少し補導されるくらいで、夏休みが明けたら元どおり。それがいちばんいい。いや、でも、変わらない。ここで、わたしが逃げてしまえば、どちらにしろわたしは悪者だ。

 舘林はこちらに向かって、顎を数度突き出した。調査会は気付かない。行け。逃げろ。わたしのバイアスを抜きにしても、おそらくそう言っていると分かる。
 わたしはそれに従う。責任も後悔の予兆も舘林の安全も、いまこの時だけはすべてを棚に上げてしまおう。腰を低くしたまま、その場を離れた。わたしは当事者であることをやめてしまった。舘林は注意を引くためか、大袈裟にもがいてみせる。背を向けたわたしは空間から疎外されていく。浅い呼吸を繰り返しながら、溢れんばかりにたぎる罪悪感を抑え付ける。わたしは麓を目指した。

 真新しい記憶ができた。母から聞かされた、父との馴れ初めについての話。母との山行。一度目の舘林との出会い。そして、今日。わたしと家族だけの山だったはずなのに、あれよあれよと形は変わっていった。また、転んでしまいたい。父の記憶を背負っていたこと、舘林がわたしに望んだこと、そのどれもが、今となっては鬱陶しくも感じられる。必要ないのはこの意識だった。逃げることも、立ち向かうことも、結局わたしはなにひとつ、自分の力で選び取ることができていない。

 登山口にたどり着いてからも、警察へ連絡はしなかった。調査会の出所を考えれば、それが無駄だということは自ずと分かることだった。自転車のペダルはやけに重く、時折の向かい風がわたしのこころを磨り減らした。

 熱の籠もった家の扉を開け、そのままベッドへ飛び込む。何も見たくない。聞きたくもない。枕へ顔を埋めると、どうしてかそれは濡れていた。涙が出たのは、いつぶりだろう。わたしには何も変えられない。世界の在り方はおろか、臆病な自分自身ですら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?