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落下傘(下)

「どう思いますか」と言って遺書を手渡せば警官はざっと見るなり、独りよがりな印象を受けます——そう言った。
「自殺する奴に他人のことを考える余裕なんてないよ」私は反射的に口にしていた。はじめから用意していた言葉のようだった。
「両親に宛てているにも関わらず、感謝や謝罪の言葉が見当たりません。相続についての言及もありませんし、そういうものなのですか」
 そういうものでしょう、と言いたくなるのを堪えて、「どうしてでしょうね」
「ちょっといいですか」そこで横槍が入った。私と警官が振り返ると、検死官はきっと口を結んでいる。次の言葉をためらっているようだった。「どうしましたか」
「彼は苦しんで亡くなったようです」私が促すと検死官は苦々しい口ぶりでそう言った。彼のことを救い損ねてしまったとでもいうように。死んだ人間の体を暴くことが仕事の人間に、いったいどんな後悔があるというのだろう。

「手首に新しい掻き傷がありました。呼吸障害で目が覚めて、そこから苦しんだのだと思います」
「ボタンは押されないものなのですか」と警官。すぐに答えを求めたがるきらいがあるようだ。だがその言及ももっともだった。退役飛行士の自宅には緊急ボタンと監視カメラを設置する決まりになっているのだ。
「このような場合——つまり自死が上手く行かなかった場合、苦しみに耐えかねて呼び出しボタンを押すことがほとんどです。救急隊が間に合うかは別問題ですが、少しでも可能性を高められるよう、わざわざ家中に設置しているんです」私が口を開くより先に、専門外のはずの検死官が答える。「だからほとんどの自殺者は、屋外を選びます」
 彼はボタンを押さなかった。第一発見者は——誰でもない。監視カメラが不審な動きを検知し、救急へ自動的に通報したのだ。警官曰く、救急隊が到着した時には、もっと言えば監視カメラが反応を見せた時にはすでに、彼は事切れていたということだ。
「自殺する人間の心情はどうしても分かりかねます」警官はそう言いながら傍らの椅子にどかっと腰を下ろした。ばらばら、ばらばら、雨音はこの地下にまで届くほど大きい。

 はあ、と検死官が大きなため息をついた。私よりも多くの遺体を目にしてきた彼女でさえ、今回のケースはこたえるようだった。私は彼女にかける言葉を探すことができない。傍らに横たわる遺体には彼女によって既に簡易的な死化粧が施されている。今の私よりもよっぽどいい顔をしているな。そんなことを考えているうち、私はいつの間にか居眠りをしてしまっていたようだった。

 甲高いサイレンの音が聞こえる。急病人が出たのだろう。どこへ向かうのかと目を向けていれば、救急車はアパートの前で止まった。降りてきた救急隊員と住人が何やら話し込んでいる。住人はやがてベランダに立つ私を指差した。その瞬間、私は数分前の私を取り戻す。
 かつて私は自殺未遂を起こした。10年も経っていない。退役飛行士の代表に選ばれ、こうして現場へ立ち会うことになったのもそれがきっかけだった。
 階下の住人による通報がなければ公になることはなかった。住人がベランダから身を乗り出している私を見つけたあのとき、すでに死のうとは思っていなかったのだから。
 両親はすでにこの世におらず、特別な友人もいない。ミッションに全てを捧げるための覚悟は、憂いなく死を選び取るための理由と背中合わせだった。
 私を覚えている人間はどうせすぐにこの世界からいなくなる。どうしようもないほどのやるせなさに襲われながら生きていたいとは思わない。しかし、じめじめした死という概念の一部に自分が取り込まれてしまうのも恐ろしい。そしてわたしは宇宙を目指した。自己犠牲とはなんと都合の良い言葉だろう。ミッションが上手く行かず命を落としたとしても、そこに付随するはずのどんよりとした感情は、世界からしてみれば大義のための犠牲としてかき消される。
 それならきっと、ミッションをやり遂げた私が死を選んだとしても、本質はなにも変わらない。きっと彼も同じように、気付いたのだ。まっさらな孤独にひとり放り出されたとき、とうてい生きていくことはできないのだと。そして地球に戻り、もう一度絶望した。この世界に縛り付けられる限り、決して孤独ではいられない。一度宇宙に出てしまえば、死も生も一個人の手を離れていってしまう。顔も知らぬ誰かが死を悼み、写真、文章、映像、残された断片をこぞって食い尽くし、満たされたその腹の中に故人は生き続けているとのたまう。名誉職とは得てしてそういうものだと誰かが忠告してくれさえすれば、わたしはひっそりと死ぬことができていたかもしれない。

 正気をいつから失ってしまったのだろうとまどろみの中に答えを探し、もとよりそんなものはなかったのだと、繰り返し己に言い聞かせた。気付けば目が覚めていた。検死官が、泣いていた。「すみません、どうしましたか」半開きのまなこで私は尋ねる。

「いえ、いいんです」検死官はそう言って部屋を出る。
「申し訳ありません、余計なことを、言いました」警官の顔色は変わっていなかったが、声色にはわずかの動揺が見て取れる。
「ご両親には私から伝えておきますので、先にお帰り頂いても」本当のところ、警官にはこれ以上長居してほしくなかった。
「いえ、それが私の仕事ですから」
「そうは言っても、到着の目処は立っていないんでしょう」苛立ちをできるだけ隠しながら私は言った。「彼女と、何かあったんですか」

 ばーん、と大きな花火のような音が聞こえて、それからすぐ部屋に静けさが戻った。どこかに雷が落ちたのだろう。

「彼女に、あなたのことを伝えたんです」威勢の良かった警官は、なんだか動物病院へ連れて行かれる子犬のように見える。「彼女は以前から、不思議に思っていたようで」
 驚いた。彼女は私のバックグラウンドを知らなかった。てっきり事前に誰かが説明をしたものと、私はそう思っていた。「軽薄でした」

 スネアドラムのような豪雨は止んでいた。穏やかな葬送行進曲に、なるだろうか。

「それは、軽薄ですね。彼女にとっても、私にも」
 こいつはひとしきり子犬のふりをしたあと、またそれまでのような高慢な人間に戻ってしまうかもしれない。私の中の邪悪が鎌首をもたげた。生き残るのは図太く狡猾な人間ばかり。夕映えにも焼かれてしまうような脆い心を懸命に掲げ歩けど、その先には暗闇がただ待つのみ。どうして私は、あのとき生きることを選んだのだろう。

 両親がモルグに到着したのは夜が明けてからだった。彼らは私たちに短い感謝の言葉を述べたのち、遺書に目を移し静かに涙を流した。遺族のケアは私の仕事の範疇ではない。

 彼は最後まで孤独を詳らかにしようとしなかった。彼の孤独を知り得なかった近しい人々がわずかでも自責の念を抱くことのないように、彼は最後まで自らの心づもりを明かすことなく命を絶った。どれだけの覚悟が必要だろう。鎮痛剤は彼に安らぎをもたらすことなく、ありったけの痛みを与えた。彼は悔やんでいるだろうか。いや、彼はいっときの衝動に身を任せたのではない。はじめからきっと覚悟の上で、両手からこぼれ落ちるほどの葛藤を抱えたまま沈んでいったのだ。

 きっとこれからも宇宙飛行士は死んでいく。青い星から闇へ踏み出すことを選んだものたちは、やがて日常に覆い隠された闇の気配を感じるようになる。それを止めることはできない。人間は元来、死を望むものであるから。
 死んでもいいと思えるような夜を探すことにした。いつでも死んでしまえるという可能性が私を生かしていく。99%の人間が選び取ることのない選択肢であっても、それが選択肢を丸ごと排除する理由にはならない。どこにでも分岐点が存在していて、少し進んだ先には奥行きも匂いも温度も分からない闇が待ち構えていること、自分自身で恐れるかどうかを決めることのできる自由があること——幸いなことに私にはそれがある——を愛おしく思う。安寧は死者に捧ぐものであり、生きているうちは熱に浮かされていればいい。

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