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いつかの、(足首)

 雨は勢いを強めることも弱めることもなく、ただしんしんと降る。フードの下でわたしは息を吐く。首の後ろが蒸れてなんだか気持ち悪い。わたしは気を紛らわすために自分の内側へと潜る。物語はなにも新しく生まれるものだけではない。既に紡がれた歴史が、わたしの中には遺されている。
 
 わたしはこの学校に入る少し前のことを思い出そうとした。たったの二年前なのに、記憶はひどく曖昧だ。それより前のことは、もっとよく覚えているはずなのに。きっとわたしの脳の作りが、大きく変わる最中だったんだろう。現にわたしは、昔のわたしを理解できない。あのとき、どうしてこういう風に振る舞ったのか。今のわたしなら、もっと上手くやるのに。いつどこで、わたしはわたしと隔たったのだろう。なんて。でもそのわたしが、今のわたしに繋がっている。不思議だ。

 そういえば、父親とはもう随分と長いあいだ、連絡を取っていない。生きているのは確かだ。わたしの学費は父によって支払われている。面談にも顔を出すことはないが、学校側はそれで特に問題はないらしい。研究者はずいぶん信用されている職業のようだ。

 わたしが生まれた街を出ることになったのにはいくつか理由がある。この県のいちばん北、ほとんど終わりかけている街。わたしの家の周りには、わたし以外に子供はいなかった。少子化が改善されつつある、と言っても、それは人口密集地での話。子どもを育てやすい環境に、と捻出された国からの予算は、地方ではその多くが高齢者の予算へ割り当てられた。どうしようもないことだ。地方を支えていたのは紛れもなくその世代なのだから。「いなくなるまでは」丁重にもてなす必要があった。

 産めよ増やせよ、なんて今聴いても吐き気がするスローガン。今の日本は、その百年前と近い状態にある。そのスローガンはこの地方都市にも着々と浸透しつつあった。不妊治療。精子バンク。卵子凍結。国外輸出のために割かれていた労力は、国内医療へと。人的資源を無駄にしてはいけない。まるで、発電時のエネルギー変換効率を最大化するみたいに。ひとにやさしく。だれもきずつかないように。

 その空気を、わたしは吸い込んでみたいと思ったのだ。だから、生まれた街を出た。きっとあと十年もすれば、あの街も同じ毒の混じった空気に染められるだろう。地方移住者が新しいコミュティーを形成して、地方再生を声高々に叫びだすころ。それでは遅かった。わたしの物語は、モラトリアムを許さない。登場人物はあっという間の生を過ごし、壮絶な死を遂げ、伝説になる。そういうものだった。わたしがわたしの人生の主人公であり続けるためには、いつだって急進的であり続けなければならなかった。

 それともうひとつ。わたしは本質的に根無し草なのだ、と実感したから。わたしが生まれた街、でもそこにルーツはなかった。わたしを産んだはずの人間の影は見えず、祖母も祖父もわたしの視界には入っていなかった。父とわたしの二人、どうしてこの街に留まり続ける理由があっただろうか?

 父の転勤とわたしの高校進学をきっかけに、わたしはふるさとを失った。流れ着いたのはこの街。この辺りではいちばん大きな地方都市。これからわたしは、どこへ向かうのだろう。旅をする遺伝子がわたしにもあるなら、この放浪も楽しめるかな。

 主人公になりたいわたし。ふるさとのないわたし。移民や天涯孤独ほど強烈なアイデンティティを持っている訳でもないわたしが、このわたしが、特別になるには。そういうある種のナルシズムに、今もわたしは突き動かされている。破滅的な山行。誰にも理解されないという幻想。今のわたしには、理解し合える、なんて甘言こそ幻想に思える。誰かに吐き出せば楽になれただろうか。わかるよ、私にもそういうことあったよ、でもね、それは、学生がみんな通る、一種の妄執なんだよ、だから、大丈夫、ちゃんと、まともになれるから。

 ああ、ああ。また、またわたしはわたしを嫌おうとしている。嫌うのは、誰よりも、わたしが、わたしを、好きだからだ。

 わたしは、眉をひそめた。それ以外の方法で、この感情を発散することはしなかった。これがわたしのやり方。誰にも気付かれないように、わたしはわたしを傷付ける。雨に濡れて冷えた肌が、わたしを憂鬱で包み込んでくれる。安心して不幸でいられる。不幸でいられるから、わたしは幸せ。不幸になりたいときに、なりたいだけ、不幸になれる。
 
 わたしの眼はきちんと、上を見据えていた。慣性の法則に従って、それに少しエネルギーを足して、脚を動かす。前へ前へ、上へ上へ。梛さんもあまり疲れた素振りは見せない。大丈夫。ちゃんと、帰れそうだ。

 予定通り、五合目付近で休憩を取る。梛さんの顔にも生気が戻ってきた。この次は、八合目で少し休んで、そうしたらあとは頂上だ。十四時までには登って、下りは十七時を目安に。

「どうですか、大丈夫ですか」

「うん、登れるよ」

「じゃあ、歩きましょう」
 
 言葉少なに腰を上げ、また歩き始める。会話なら、歩きながらでもできる。問題は、顔が見えないことくらい。

「で、何を悩んでたんですか、梛さんは」先程の話題を思い出して、そう口にする。なんでもいいから、梛さんのことが知りたかった。

 しばし、沈黙があった。雨はジャケットのフードにぱらぱらとぶつかって、よく弾ける。深夜にテレビを付けて、放送休止中の画面をぼうっと眺めるみたいに、そのノイズをわたしは心地よく思った。

「なんかさ、ずっと、死にたかったんだよね」

 今のわたし、どんな顔をしているだろう?梛さんの口調は、なるべく事も無げに、それが大したことでないかのように、そっと言葉を吐き出そうとしていた。わたしもです、なんて口を挟む勇気はない。傷を舐め合いたいわけでもない。共感なんて、なんの気休めにもならない。
 
 それよりも。わたしは嬉しかった。梛さんの人間らしい部分を、初めて見た気がしたから。

(続く)

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