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“誰もが分かり合える世界”

戦争が起きる要因の一つ
それは「正しさを巡る戦争」

なお、小規模の戦争はいつもどこかで日常的に起こっている。

昔は祭りがあると喧嘩とそれに伴う死人が付き物だったそう。
しかし、現代では生活の中で争いを見かける機会はほぼない。
それほど人間の精神性が成長したということか?いや、そうではない。
舞台が移ったのだ。インターネットを見ればそれは明らかだろう。

現実世界にあってインターネットにないもの・・・それは人の目だ。
これは、ある種のリミッターだ。
現実世界では人の目という名の“スパイト行動”によって異端者は排除され、そうやって秩序は保たれてきた。しかし、インターネットに人の目は存在しない。究極に自由な空間。人の目というリミッターから解放されたとき、人の中にある「“祭りと喧嘩と死人が付き物だった頃”と変わらない獣性」が剥き出しになる。

いたって平和な現代社会においても、インターネットの世界に一歩足を踏み入れればそこはさながら紛争地帯

Twitterにて、ワクチン接種肯定派を憎み
ワクチン接種否定派を応援していたあの頃・・・

肯定派が悪で、否定派が善であることを何よりも望んでいた。
自分と意見の異なる者が間違っている理由を積極的に粗探し、自分と意見の合う者の正しさばかりに目を向ける。
こういった偏ったバイアスに囚われた精神状態は極めて危険だ。
正しさを巡る争いの中では肥大化する悪意は留まることを知らない。

今になって冷静に考えてみれば、どちらも正しいことを言っていると分かる。そして、どちらも正しいことを言っているのに、お互いがお互いを間違っていると思っている。

お互いにお互いの言い分があり、それでも自分の言い分が正しくあって欲しいがためにお互いに争う・・・どちらも間違ってはいないというのに。
しかし、それは一歩、戦場の外に出てみないと理解できない。

誰もが「真実はいつも一つ」だと、そうであるべきだと思い込んでいる。

この思い込みこそが全ての争いの元凶なんだ。

皆が皆、自分が一番正しいと思っているし、自分と考えが違う者を間違っていると思っている。

誰にでも平等な正しさなんてどこにも存在しない。
だからこそ、正しさを巡って他人と争う意味なんてないのだ。
自分だけが・・・自分一人だけが分かっていればそれでいい。
他人に分かってもらおうなんて思わなくていい。他人を理解しようなんて思わなくていい。願ったところでどちらも叶いっこないのだから・・・

「誰もが分かり合える世界」
文字だけを見れば美しく見えるが・・・

もしも、他人の全てが理解できたら
もしも、他人に自分の全てを理解されてしまったら・・・
それこそ、この世界に「嘘」なんてものが存在できていること自体がおかしいことになる。

それに・・・
自分の考えが他人に筒抜けだったり、他人の考えが分かり切った世界・・・そんなもの、何が楽しいのだろう?

“他人なんて理解できない”ということを理解する。
“自分を理解してもらえるなんて不可能”だと理解する。

これこそが本当の「誰もが分かり合える世界」ではないか?

結局、人間はだれもが自分のやりたいことをやって、言いたいことを言っているだけなんだ。

それでも、ときにそれが分からない誰かがこちらを否定するためにあちらの正しさをぶつけてくるから。自分以外の誰かと正しさがぶつかってしまう時もある。しかし、あくまでそれは自分を守るため。

だからこそ、強くならなければならない・・・
自分を否定してくる他人を打ち負かすためではない。

自分を守るために他人と争わなくても済むように・・・
自分を否定する他人を歯牙にもかけないほどに。

これこそが、本当の意味での「優しさ」ではないか?


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