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学校の演繹あれこれを帰納チックに捉え直すためにはどうしたらいいのだろう?(序章)

こんにちは!

私立の高校で教員をやっているだいごです。

本日は、演繹法と帰納法という二つの推論法について、だいごなりに解釈したものをまとめたいと思います。


え? エンエキホウ??
と、目を点にして、カタコトで言っているあなたも。

帰納法? 何それ美味しいの?
とヨダレ垂らしているあなたも。


大丈夫。演繹法も帰納法も、別に特別な考え方(推論法)といったものではなく、普段からみんながやっている考え方なのです。


ただ、その考え方を無意識的におこなってしまっているからこそ、

・適用しなければならない場面で適用できていない
・適用はできているんだけどその適用のしかたとか、とらえ方を間違っている

ってことになっていて、それによって、不都合なことが起きたりする。


演繹法とか帰納法とか、その言葉を覚えること自体に特に意味はないのだけども、

今あなたが何かしらの判断や行動をするときに、 

どっちの考え方(推論法)を使っているのか?
もしくはどちらでもないのか?

がわかっていなければ、その判断や行動のリスクに備えることができないわけで…


本日は、最近、推論法についてばかり考えていた私が、しっくりきた例えを交えながら演繹法と帰納法について説明し、

演繹チックな学校のあれこれについて考えていきたいと思います。

どうぞ、最後までお読みください。


さぁ、思考の武器を持って、冒険の旅に出かけよう。

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そもそも、なぜ推論法をまとめたいと思ったのか?

と問われたら、


それは、私が教員だからでしょう。

というのが一応の答えで。


つまりね、毎日生徒に向けて授業をしているとむなしさを感じることが多々あるわけですよ。


あ〜、今やっている知識を伝達するだけの授業に何の意味があるのか…


と。


もちろん、授業を行うこと自体にまったくの意味がないなんて思ってはいないのだけど、

目の前にしている生徒に一番必要なものは別にあるんじゃないかと考えてしまうのですよ。


今、彼らに必要なのは時代によって変わってしまうかもしれない、もしくは使えなくなってしまうかもしれない知識ではなく、もっと根本的な力ではないのか…と。



そんなモヤモヤしている私が、たどり着いた一つの力が推論法。

実は、この推論法って、どんな人でも鍛えれば伸ばせる力らしくて、生まれつきの才能に左右されない力らしいのですよ。(多分)


これから起きる現象をどのように予測するのか?
今まさに目の前で起きている現象をどのようにとらえるのか?

というのは、子どもたちがこれから生きていく人生で必要な力の一つなのではないでしょうか!?


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私は高校で生物を教えているのですが、

ミトコンドリアなんて社会人になってほぼ使うことなんてないよね。


ミトコンドリアっていう知識を持っていると、確かに「教養のある人」ということになるのかもしれないけど、


ミトコンドリアがお金を稼いでくれるわけでもなければ(研究者は除く)
ミトコンドリアが料理を作ってくれるわけでもない。

ましては、添い寝なんてもってのほか!!
(ミトコンドリアさんっていう恋人は除く)



もちろん、大学に進学するためにはその知識が一つの武器にはなるのかもしれないけど、もっと広い視野で人生をとらえなおすと、その適用範囲は非常に狭い。

(下手すると大学受験までの3年間しか使えない…なんてむなしい…オヨヨ)



それよりも、人生を通じて、使える力(ここでは推論法)を授業で身につけてもらったほうがいいじゃないか!

そんな授業をできたら、虚しさなんて感じないじゃないか!!

ミトコンドリアではなく、本当の恋人が添い寝をしてくれるんじゃないか!!!


そう思って、まずは自分なりにその推論法をまとめてみよう。
と考えたわけです。


演繹法・帰納法の違いとは?


さてさて、前置きが長くなりました。
早速、本題に入っていきたいと思うのですが。


まぁ、演繹法と帰納法の違いなんて、今のご時世、ググれば一発なわけで。


私よりもわかりやすく説明している記事があるわけで。


そんな状況を知っているのに、ここで永遠と演繹法・帰納法について説明する気にもなりません。


べ、別に、めんどくさいわけじゃないんだからねっ!!!


なので、ここでは簡単に演繹法と帰納法の違いについて説明します。



演繹法とは?

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演繹法は、普遍的な前提やルールを、目の前で起こっているものごとに適用して、そのものごとが行き着く先(結果)を推測する推論法。

抽象的なことから具体的なことを推測するってことですね。

みなさんがよく聞く、三段論法ってのがこの演繹法に当てはまります。

推論法としては、かなり強い力を持つ方法です。

何が強いのかって? それは説得力・論証力の強さ。
ときには、相手に反論の余地を与えないほどの力を持っているのがこの演繹法なのです。

他人を論破するのに使えそうですよね!!


演繹法で、一番気をつけなければならないことは、前提・ルールがそもそも間違っていると結果まで間違ってしまうこと。

しかも、たちの悪いことに、この推論法が大きな力を持っているからこそ、それを信じ切ってしまって、結果が間違っていることに気付きにくいってこと。


演繹チックな推論法をしている時は、

常に前提に間違いがないか?

を疑う必要があるのですね。


帰納法とは?

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帰納法は、目の前で起きている複数のものごとや事実(結果)から、共通点を見つけて、そこから前提やルールを推測する推論法。

具体的なことから抽象的なことを推測するってことです。

自然界からパターンを見出していく、科学的な思考がこれに当てはまります。


演繹法と比べると推論法としての力は弱いのです。

演繹法には普遍的な前提・ルールがありましたが、この帰納法にはそもそもこれといった前提・ルールがありません。

そのため、この帰納法を使う人によって結果が違うという特徴があります。

科学的知見が、更新されていくって日常茶飯事ですよね。

なので、多様な考え方や推測を得ることはできますが、そのすべてが信用に値するか? というと、そうとは限りません。多くの場合、不確定な部分が含まれるため、反論には弱いです。


帰納法で、一番気をつけなければならないことは、推論の根拠として取り上げたものごとにエラー(俗にいう外れ値)が含まれていると推論自体の信憑性がなくなってしまうこと。


ほんとに、たまたま、そのときだけ起こる。
ってありますよね。それを、いつも起きていることだろうととらえて推論の根拠として使ってしまうと、結果も怪しいものに…


帰納チックな考え方をしているときは、

その目の前の情報がエラーではないか?
たまたま起きているだけではないか?

と問いかけて考えることが必要になってくるのです。


つまるところ、演繹と帰納をひとことでいうと?

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すごい良いたとえをしてくれた友人がいたので、それを使わせてもらいます。

演繹チックなのは、サッカーとか野球をそれぞれのルールでやること。
 
帰納チックなのは、サッカーとか野球のルールの要素を抜き出して、それを組み合わせて新しいルールをつくること。


ん? と思った方もいらっしゃるかもしれないけど、一応の現段階での、私の理解。


演繹チックな世界では、サッカーのルールを野球に応用することはできないし、その逆もしかり。

11人で野球をしようぜ〜とはならないよね笑


でも、帰納チックな世界では、それができちゃうわけ。新しいキックベースボールってスポーツが生まれちゃうわけ。

野球とかサッカーっていう具体的なスポーツから、楽しいところとか良いところを抜き出して(抽象化)、新しいルールをつくっちゃうんです。



つまり、演繹と帰納をひとことでいうと

演繹は、誰かがつくったフレーム内でものを考える

帰納は、逆に自分でフレームをつくっちゃう!

ってことなのさ!!!


フレームの中で生きる演繹チックな学校

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でね。私は高校の教員なのだけど。

演繹法とか帰納法について考えていけば行くほど、


学校の教育って、あ〜なんか演繹チックだなぁって。


ある種、自虐的にとらえてしまった。


それが今回の大きな気付きなのです。


たとえば、授業とかテスト!

教科書とか先生が授業でいうことという前提・ルールがあり、
 
目の前には、解かなければならない試験問題がある。
 
生徒は、教科書に書かれた前提・ルールを、試験問題に適用しながら、答えを推測していく。

これってまさに演繹的な考え方じゃね!?!?


そのほかにも、たとえば校則とか。

校則っていう前提・ルールがあり、
 
目の前には、生活しなければならない(したい?)学校がある。
 
生徒は、校則に書かれた前提・ルールを、学校生活の様々な場面に適用しながら、学校(大人)が用意した理想の生徒・人間像の答えを推測していく。

ちょっと、これは言い過ぎ?笑


まぁ、ただ授業に関して言えば、本当に演繹チックなことばかりをしているなぁと思うわけで。

この何が問題かというと、演繹の力はとても強い(説得力がある)ので、みんな特に考えることなく、その力を使うこと。


つまり、あるフレーム(枠)を作って、その中でしか生きないというか。

フレームをあえて飛び越えようとか、新しいフレームをつくったりしない。



たとえば、

すでに教科書に載っている公式とか!

教科書で太文字になっているところとか!!

本屋で売ってる必ず成功する恋愛の教科書とかっっ!!!


そこさえ、覚えれば目先のテストとか、大学入試とか、デートとかを乗り切れちゃうからみんなそこばかりを気にするわけで。

まぁそもそも何も考えなくても答えが導き出せる方法があって、さらにその答えが正解ってのは、かなり楽だし、ゲーム性があって楽しいからね! 



でも、この演繹チックな力が強いからからこそ、前提を疑わなくなってしまう…という側面も。

(暗黙的な昔の軍事教育の名残なのか、なんなのか…)



すると、時代が変わって、これまでの前提がルールが世の中に受け入れづらいものになっていたとしても、誰も前提・ルールを疑うことの姿勢が整っていないので、

時代にあっていない前提・ルールで目の前のことを演繹チックに処理してしまう。


時代に合ってないなぁとすら、本人が気づけないのは、

「あ〜今、俺って演繹チックにものごと考えているなぁ〜」

とか

「あ〜、この組織の当たり前って演繹じゃね?」

とか

「あれ? 絶対、成功するデートコースって、これ誰が決めたの? 演繹じゃね?」

とかを自覚できていないから。


その考え方が演繹チックって、自覚できていたら、
「お、ちょっと待てよ。前提を疑ってみよう」

となれるわけで。


そうした気付きを自ら得られる能力ってやっぱ重要だなぁと、これまで生きてきたおじさんは思うわけですよ。

はい。


だからこそ、あえて声高に言いたい。




絶対、成功するデートコースなんてないんだからなっ!!!


と、言いたいことを思う存分叫んだところで
真面目なところに話を戻すと。


学校での教育を演繹チックだけにすることもできたり、そこに帰納チックさを取り入れることができたりする教員の役割って重要だなぁと改めて思ったわけさ。


私、理科の教員なんだけど、理科こそ帰納法的な推論法が必要なわけで…


でも、現状の学校でおこなわれる教育は、

ただの穴埋めというか

パズルというか

全然帰納的じゃねぇ。


絶対合っている答えなんてないのに、
さも、すべてのことはわかっているかのように演繹チックに授業をするのって、

う〜ん

って、まぁなるわけですよね。


教科書は古典として読み込もう!

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よく私が生徒に言うのは、

今の教科書ってまぁ古典だから…

ということ。


温故知新って言葉が示すように、別に古典をないがしろにするわけではないのだけど、

古典なんだ!
って思って教科書を読むのと、

これが最新の出来事なんだ!
って思って教科書を読むのとは

全然、受け取るメッセージが違ってくるよね!


古典の世界をそのまま、演繹チックに現代に当てはめることなんてないはず!


多分、あ〜そういう時代も合ったんだね〜
じゃあ、私たちはこれからどう生きようか?


古典を読むあなたはそう思うんじゃないんですか?

それって、帰納チックなんですよ。

そう僕らはみんな無意識に演繹と帰納を使っている。


だからこそ!!!
演繹と帰納をあらためて意識するのは大事かなと。


そんなこんなで、これからも演繹と帰納については、考えていこうと思っています。


他にもアブダクションとかアナロジーとか、いっぱい書きたいことはあるので、気が向いたら、また書きます


では! また!




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