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誰かの幸せとわたしのコップの水

自分のことをさて置き、誰かの幸せを祈ることができる?ほんとにできる?ほんとに純粋に疑問なんだよ。みんな綺麗事いってない?
誰かの幸せを心から祈ったり祝福することができるのって自分が幸せであると言う前提の上で成り立つんじゃないかな。違うかな。ひねくれすぎ?

少なくともわたしは、自分のコップが満たされてないのに誰かのコップに水を注ぐことができない。

誰かが言ってた。みんな生まれたときは心のコップは割れてなくて水で満たされてるって。でも誰かが親が友達が先生が社会がコップを破るんだって。割れたところから水が溢れてなくなる。コップは空っぽになる。

ほんとにわたしは割られてきたと思う。自分でも割ってきたし。わたしが神様から渡されたのは割れやすいコップだったのかもしれない。
もはやコップとは言えないガラスの破片が散らばって、拾い集めようとした手に刺さる。

だけど誰かさんはこうも言ってた。割れたと思ってるコップはほんとは割れてない。割れてないし水もちゃんと入ってる。あなたのコップは割れてないんだよって。

わたしは見てみたい。
その割れてないっていうコップとやらを。
見せてくれよ。そしたら信じるから。

わたしのコップは割れてない。わたしのコップは満たされてる。心の底から思えたら。

いつかほんとにそう思えたらな。

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