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裁判所について考える

はじめに

以前に三権分立について取り上げました。そのときに国会や内閣は選挙で選ばれた政治家で構成されています。これは国民の声を法律に反映させ、それを運用していくためにそのようなシステムになっています。しかし、三権の1つである裁判所だけはそのシステムでありません。裁判所は裁判官で構成されており、最高裁長官も内閣の指名に基づく天皇の任命であり、その他の判事についても内閣の任命となっています。今回は裁判所の民主化の是非について書いていきたいと思います。

専門組織・裁判所

裁判所は立法、行政にならぶ司法権を有する機関です。立法も行政もトップは選挙で選ばれますが、司法だけは内閣の指名に基づき、天皇が任命します。そして、そのトップである最高裁判所長官は選挙で選ばれるわけではありません。三権の中で唯一選挙を経ずに、トップが決まる組織と言えます。三権の1つがこのような組織で大丈夫なのかと思われるかもしれません。
しかし、裁判所の持つ司法権が立法や行政と大きく異なるのは法に特化し、専門性を有していることです。裁判所は争いごとについて法律で解決します。法の解釈であったり、法の適用であったりを審議します。法律の知識や法解釈、判例を理解していなければ、裁判は単なる言い争いになってしまい、裁判所が意味を成しません。つまり、裁判所は実際の運用が法に基づいているかを検証する機関であり、法と実運用に齟齬がないかを確かめるために高度な専門的知識が必要になるのです。
それに対して、立法は法律を制定する組織で専門性がないわけではないですが、どちらかと言うと専門性より責任を取る組織と言えます。行政は専門性と責任を併せ持つ組織で、トップに専門性がなくとも責任を取る覚悟さえあれば、問題ありません。トップの下で働く人たちは専門性が求められます。マックス・ウェーバーの言うように、政治家は責任を取り、官僚は専門知識が必要です。官僚の専門知識を基に政治家は判断を下します。
裁判所は法を扱う機関ですので、法を実行する行政や法を作る立法と異なり、高度な専門知識が必要になります。裁判官は司法試験に合格し、司法修習を受けた後に、裁判官の採用試験に合格しなければなりません。弁護士、検察官、裁判官を法曹三者と呼び、その中でも裁判官になるのが一番難しいと言われています。つまり、エリート集団の法曹三者の中のさらにエリート集団が裁判官になると言われています。裁判官の決断で法廷に立っている人の人生を大きく左右します。そんな人が法をあまり理解せずに裁判を行っているとなれば、非常に恐ろしい話です。裁判官が法の専門家でなければならないのは、彼らは個人的感情でなく、法によって判断しなければならないからです。

形骸化している国民審査制度

国民審査制度は聞いたことはあると思いますが、これが機能したことはありません。国民審査制度は衆議院選挙のときに、最高裁判所判事の罷免の是非を問う制度です。衆議院選挙のときに投票用紙2枚(小選挙区と比例代表)渡され、さらに数名の名前の書いた紙を1枚、計3枚渡されます。名前の書かれた紙が最高裁判事の罷免の是非を問う投票用紙です。この用紙に罷免したい裁判官に印を付けるもので、印がない場合は信任されたこととなります。衆議院選挙の投票用紙は支持する候補者、政党を書きますが、国民審査についてはその逆です。
これが、国民審査制度がうまく機能しない原因の1つと考えます。国民審査だけは罷免したい人に印を付けるのでは、投票者の心理的ハードルが上がります。名前の記入は不要と思いますが、信任したい人に印を付けて、他の選挙と同じ仕組みを合わせるべきです。見ず知らずの人を自分の手で辞めさせることに非常に大きな抵抗があるのは人として当たり前のことだと思います。この制度があること自体は良いのですが、運用方法を変えるべきです。
国民審査制度で誰かを落とそうと考えているのではなく、国民が司法に対しても意見できる貴重な機会ですので、その機会をしっかりと活かすべきと考えています。制度自体を変えることは難しいですが、運用方法を変えることは制度の枠組みがあるので、制度に比べるとハードルは高くありません。裁判員制度も裁判に国民の声を入れるべきという意見を取り入れて実施されました。国民審査制度についてもそうなる可能性は十分にあると考えています。
国民審査を一度通過すれば、何もなければ定年まで勤めることができます。政治家の当落は選挙のたびに決まりますが、最高裁判事の当落はたった一度だけです。頻度についても定期的に見直す必要があり、着任から5年以内または10年以内で再度、国民審査に付されるべきではないかと思います。国民の関心がそこまで高くないので、司法改革は政治改革の中でも後回しにされやすい分野であることも否めません。また、変に手を加えると権力の濫用と騒がれても困ります。
国民が司法に意見できたり、参加できたりする制度があることは非常に素晴らしいことです。それをきっかけに法について考えることが増えるかもしれません。国民の法意識に関する教育にもなります。問題はその制度ではなく、その制度の運用が70年以上経って、特に見直されずにここまで来ています。定期的に見直すべきですし、時代に合わせた変化は重要です。制度は運用がしっかりとなされて意味を成すものです。運用方法を見直すことで、意味のある制度にすることができると思います。

最後に

裁判所は閉鎖的と言われることが多いです。裁判官は選挙で選ばれるわけではなく、サラリーマン組織であるため、そう思われるのかもしれません。裁判官もサラリーマンである以上、自分の立場や出世などを意識しないことはないと思います。彼らは最後の砦で人の人生を大きく左右するだけの権力を持っています。それだけ大きな権力を持っている組織に国民の目や声を届けることは必須です。日本の現状は制度もあり、目や声が届いているように思われます。しかし、どれも形骸化していると言えます。裁判員制度は凶悪犯罪に絞られていますが、民事か刑事でも粗暴犯などの比較的軽いものにすべきだと思います。制度は良いのですが、方向性が少し違う気がします。これでは開かれた司法には程遠いです。開かれた司法を目指していることは分かりますが、その実態は道半ばです。これからは今ある制度をよりよくするための運用方法を取り入れるべきです。10数年前から始まった被害者が法廷に立てる制度は非常に大きな前進と考えています。司法は難しい世界であることは確かですが、無関係ではいられません。司法に関心の目を向けることが変わることはあります。本当の意味での裁判所の民主化、すなわち、開かれた司法はこういったことで近づくのではないでしょうか。

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