「可能性」と「期待値」について
何か物事を始める時、「年齢」と「可能性」はまるで仲の良いお友達かのようについてまわる。
こんな表現でうまく伝わるだろうか。
例を挙げてみよう。AさんとBさんのある日の会話である。
AさんはBさんの自宅に行き、リビングにギターがあるのを見てこう言った。
A「ギター弾けるのかっこいいなぁ。オレもギター弾けたらなぁ」
B「Aさんもギター始めたら?」
A「やりたいけど今からは遅いやろ?」
こんな感じの返答の時だ。ここには自分の「年齢」と今から始めたところで大成する「可能性」はないだろうという諦めの数式が出来上がっている。そもそも何を目的とした上で「可能性」をキーワードに上げているのか分からないが、どうやらAさんにとってはもう遅いらしい。
では、何を始めるのがちょうどいいタイミングなのか。
実際のところ、そんなものはない。
趣味で今からゴルフを始めるにも20代前半からゴルフを始めた人からしたら僕(30代)は遅い。僕は中二の頃にギターを始めたのだけれど小学生からギターを始めた人からしたら僕は遅い。
始めるタイミングに迷うなどとても無意味なことである。
ここには前述した通り、「目的」が大きく関わってくるのかもしれない。
今からギターを始めたところでプロにはなれない・・・
今からゴルフを始めたところでプロにはなれない・・・
スポーツは体力や筋肉の衰えがあるから、いた仕方がない場合もあるが大抵の場合、僕はその年齢による諦めさえも無意味だと思っている。
学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応に合格した話や、40歳を過ぎてから弁護士試験の勉強を始め合格した話や、62歳からパソコンを触り出し81歳でアプリを開発した若宮正子さんのように前例はいくらでもある。
そんな方の事実を知った上で年齢、即ち時間のせいにするのはなんとも滑稽な考えではないか。
だがそんな時、外野は黙っていない。1年間で偏差値を40も上げようものなら周りの人は無理だの何だのと「あなたのためを思って」などと言いながら諦めさせるように助言をするだろう。(ビリギャルの本読んでいないので想像で書かせてもらっています)
そういう批判はあって当然かもしれない。ない方がいいのだけれど、慶応って並大抵の努力では入れないし、ましてや1年で40も偏差値を上げるなんてと思うのが当たり前だ。
でも、その壁を乗り越えることができた。周囲から可能性は低いと思われていたことを可能にした。
要するに、年齢や時間による可能性は大した話ではないということである。
周りの「期待値」が低いだけで「可能性」は何も変わっていない。
小学生の子に将来の夢を語らせると大人は温かい目で見守るが年齢を重ねるにつれ、より現実的な夢でないと周囲は納得しない。そこには「今からやっても遅いだろう」という周囲の期待の低さが込められているからだ。「今、その実力では大成しない」と。
そこには「期待値の低さ」が込められている。
しかし、そんな逆風に耐えた例などいくらでも存在する。
そしてP2Pなんて言われだした昨今では年齢による障害はなくなってきている。
アーティストは自分の作品を全世界に発信できるし、特化した能力を持った人は自分の技術を企業に属さなくとも売ることができる。当然、そこには実力が必要になってくるが年齢は関係ない。写真家になるために学校に通い、師匠に何年もついた写真家と、定年を迎えてから写真を始めた人がSNSに写真を上げたとする。そこには年齢では評価されない。定年を迎えてから写真を始めた人が評価されるかもしれない。こう考えると年齢の概念などどうでもよく思えてくる。
もちろん、短時間で必要な実力を身につけるためには「正しい努力」をしなければならないが、そんなことを差し引いても可能性の話には程遠い。
僕は30歳になる前、30歳になったらもう終わりかなと漠然と思っていた。
終わりかなっていうのは、何も人生を終えようなんてことではなく、あとは応援する側になるのかなと思っていた。
とても全うにも聞こえるのだけれど、それじゃとてつもなく面白くない。人生は今まで生きた倍以上の寿命が残されている。(平均寿命として)
歳を重ねて周りの期待値が下がった分、自分が自分に寄せる期待値を少し上げてやろうかなと。
そんな風にほくそ笑んで最近は日々を過ごしているのです。
次回は「車について」
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