『大きな魚とスニーカー』①

1

 僕は座席に腰を下ろしたと同時にスニーカーを脱ぎ捨てた。

山口から大阪に向かう夜行バスの中、僕は後方に座る女性を気にしていた。

座席をリクライニングしたかったが、つい、姿も見えない女性に遠慮してしまい、なんとも、中途半端な気持ちで前方を眺めていた。

締め切られたカーテンの隙間から、等間隔で点滅するように車内へ光が差し込んで来る。

高速道路の脇にそびえる建物の近代的な光。

その一方で、不思議な懐かしさがある座席のシートの上は、自分が周りから置いていかれているような感覚をさそう。

体が窮屈さに耐えかねておもむろに、足を伸ばす。

自由さを取り戻した素足に目を向ける。

 スニーカーは苦手だ。ということもあるが「履かされること」が苦手なのだ。

そのため、たとえバス車内であっても、可能な限りはいつものように素足のまま過ごした。

いつも考える。

なぜ、人は靴を履いているのだろうか。
人は歩く。

そして、歩く人には靴が必要だ。

「歩くから靴を履く」理由は至ってシンプルだし、何も変なことはないのかもしれない。

しかし、どうしてか最近の僕は、「靴を履くから歩いている」といった感覚に陥る。

多くの人が靴を履いてしまった。

だから、歩いてしまうのだ。

きっと、そう考えているのは僕だけではないはずだ。

揺れる車内のなか、到着時間の半分は過ぎた頃だった。

2

 大阪での生活は、五年目になる。

未だにこの街の雰囲気を、私は受け入れられずにいた。

にぎやかな街や人々で私の気分は暗澹となる。

私は生来、大勢の人が密集し、うごめいている様が苦手なのだ。

そのため、外出は仕事か気に入っているアクアリウムショップに行く他には滅多にしない。

新調したスニーカーのトリコロールは、箱に入れられたまま、家具の少ない部屋の中、鈍い光沢を放っている。

「靴を履くから歩いている」

たしか、彼はそんなことを言っていた。

私はスニーカーが入った箱を手繰り寄せてみた。

魅力的なスニーカーも、社交的な素足がなければならない。

靴紐を指に絡め、すっ、と持ち上げる。

そして、ゆっくりと、あたかも足が地に着くような動きで、フローリングを踏ませた。

まじまじと改めて見遣ると、靴全体はシンプルなデザインだが、ソールの裏の部分は幾何学的な彫りが入っていた。

模様の溝を指先でなぞる。

凝ったデザインも歩く時には、見えなくなるのだ。

このまま、インテリアとして置いてしまおうか。と考えて始めたためか、外で歩くことが更に億劫に感じられた。

買った時の理由を思い返そうとしたが、それはもうどこかに忘れてしまっていた。

3

雨が降り出した。

天気予報とは打って変わっての雨模様。

いつ、どこから来たのか分からない大きな灰色が、窓ガラスから見える風景を覆った。

やがて、温い空気が自室の部屋全体をを柔らかく包んだ。

雨は、好きだ。

あたかも濡れてはいけない遊びをしているかのようにみんな一目散に屋根へ飛び込む。

おびただしくひびいていた足音が、段々と雨足だけに変わっていく。

街の音楽は次のレコードへ切り替わった。私の気分を晴れやかにする音色。

洋服を選び、念入りに髪を整えた。

鏡の中の私も今日は目を細めている気がした。

準備がひとしきり終え、先程取り出しておいたスニーカーに手を伸ばした。

外の灰色が部屋の中を満たしているせいか、スニーカーの白が映えて見える。

幾何学模様にさよならを告げ、スニーカーに足を忍び込ませた。

靴紐を緩め、足の形に合わせて再び結ぶ。

立ち上がり全身鏡で自身を、そして、最後に身だしなみと持ち物を確認した。

彼に会うのはいつぶりだろうか。

玄関を出ると少しだけ肌寒かった。

(4.へ続く)

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