見出し画像

狂ってしまうのを待ってる

昨日は19時半ごろに退社した。
それくらいの時間で予定のない夜なら、いつもならサウナにいくところだけど、こんな状況なので家にかえるしかない。
電車で友人のおひやがくれた(貸してくれたのかもしれない。もしそうなら返すから言って欲しい)星野文月さんの『私の証明』を続きから読む。ちょうど阿佐ヶ谷に着くあたりで読み終わった。
すみません、降ります、すみません、と声を出しながらやっとのことで電車を降りて、冷たい外気を思いきり吸い込む。いままで呼吸を止めていたのかもしれないと思うくらい、鼻のおくを冷やしながらはいってくる空気が気持ちいい。
『私の証明』はなんとなく予想していた最後とは違っていて、なんなんだこの女は……というのが読後すぐの素直な感想だけど、それが人生だ。全米に3回泣かれる人生なんて、ない(あるかもしれない)。
だれしもひとに読まれるための人生を送っているわけではないから、恋人が脳梗塞で倒れても行きずりのセックスをするし、だれかに触れられたいとおもうし、日常を過ごし、遊び、酒を飲む。考えも決意も1日で変わる、待ってる、と言いながら結局待てないし、わたしはそれをにんげんらしくて面白いな、と感じる。本人には地獄でも、わたしは読みものを読んでいる側だから、それは残酷なことでもなんでもない。

今日は家でおでんを作りたかったから、駅前のSEIYUで卵と丸天、がんもを買う。ついでに、みかんを買った。いままでL寸のみかんが好きだったけど、S寸のみかんのほうが甘いことにさいきん気がついた。すずめの昔話みたいだ。

帰宅して、圧力鍋でおでんを炊きながら、皿うどんを作って食べた。大根の皮と面取りで出たくずは明日の味噌汁にする。切れていた米をやっと買えたので、おでんを火からおろして圧力が抜けるのを待つ間に明日のための米を炊き、鮭を焼く。
料理は好きだ。没頭できるし、自分でつくったものはだいたいなんでも美味しい。たぶん誰にも強制されていないというのも、好きでいられる理由のひとつだ。
音がないのが寂しかったので、年末に録画していたガキ使をかける。なんとなく音だけ聞いているくらいがちょうどいい。

23時を過ぎたころに風呂をわかして、傷ぐちをビニール袋でおおって風呂に入る。44℃で沸かしたあつい湯に浸かり、火照ってきたら冷水のシャワーを浴びる。サウナにいけないので、せめて自宅の風呂で交互浴がしたい。
風呂上がりに傷ぐちを水で洗って、教わったとおりの処置をする。傷ぐちはすこし染みるくらいだけど、ガーゼを固定しているテープでかぶれた部分が痛痒い。そこに薬を塗るとテープがうまくくっつかず、苦戦する。
病院で処方された飲み薬がねむくなるのでいつもより早めに床についた。

サウナにいけない状況になって3日。意外にも問題なく日常を過ごしている自分におどろく。
行きたいの、がまんできないの、と泣いて喚くこともなく、頭をかきむしってあばれることも、手足がふるえることもなく、皿うどんを食べ、おでんを作り、弁当の用意をし、風呂に入ってはやく寝たりしている。
もしかしたらこのままサウナに行かなくても平気な自分になってしまうのではないかと思うと怖くて仕方がない。
渇望して狂ってしまうくらいの愛をもって依存しているはずだった。
依存は愛ではないことはわかっているけれど、狂ってしまうことがきっと、わたしなりの愛の証明だった。

わたしははやく狂ってしまいたいのに。
わたしがサウナを忘れてしまうまえに、はやく。

この記事が参加している募集