五輪への公金支出の正当性

東京オリンピックがまたしても武漢のせいで潰れた(80年ぶり2回目)今だからこそ言いたい。もう水面下では今回も中止だろうが、オリンピック(五輪)への公金支出はそもそも正当なのだろうか。オリンピックも所詮は運動会だ。根っからの文化部人間である私は、運動会に税金をつぎ込む必要はないと考えている。オリンピックに相当する、開催国により巨額の公金が投入される国際的な文化祭があるなら話は別だが、文化祭がなくて運動会があるというのはナンセンスだ。私は女性アスリートというものを理解できない。肉体で競えばいかに言いつくろうと女性は男性の下位互換となってしまう。男女問わず、肉体より精神で競うべきである。肉体は所詮獣の世界であってマッチョイズムの他にもルッキズム、性差別等々と密接な関連を有している。これに比べれば、精神はまだ文明化され得る存在だ。

そうは言ってもオリンピックが純粋な運動会ならばまだ良いが、放映権を巡る暗闘や忖度に象徴されるように、現代のオリンピックは興行そのものだ。こんなものの為に公金を支出する正当性がどこにあるのだろう。昔軍隊、今運動部。運動部は諸悪の根源である。そんなものの延長の為に公金を支出する正当性がどこにあるのだろう。声を大にして叫びたい。「オリンピックレベルのアスリートのほとんどが人格者である光景を屏風から出してください」と。狂気は「健全」とされる肉体にこそ宿るのである。もっとも、アスリートレベルの運動は周知の通り却って免疫機能を低下させる為、彼ら彼女らの肉体が「健全」かどうか疑問だが、それは別の話。

オリンピックへの公金支出を許すべきではない。これは獣のような社会を脱して、より文明的な進歩を遂げる為に避けて通れない過程だ。「リベラル」を自称する朝日新聞が体罰てんこもりの「甲子園」に加担しているわが国では難しいだろうが、それでも50年後には運動部信仰を打破したい。50年もあればきっとできる。運動部とそれに洗脳された人々との闘いだけは、たとえ無職になろうと死ぬまで続けていくつもりだ。運動部・肉体の相対化なくして社会改良なし。

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