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分かりやすさだけでは、あなたと分かり合えない

情報を分かりやすく伝えることは、価値の高いことだと思われている。
テレビに取り上げられるには分かりやすいプレスリリースを書かねばならないし、テレビはそれをさらに分かりやすく加工して伝える。

ビジネス書を読んでいてもそうだ。
パッと内容を把握できるタイトルや装丁にしたり、解釈がブレない言い切りの表現をたくさんつかったり、重要な箇所にあらかじめ線が引かれていたり。

知識を吸収する目的だけに読書をするのであれば、効率的で良い。
というか、ビジネス書はそういうものだと思うけれど、活字を読む楽しさ、言葉を追うリズム感、筆者の考えを読むには、あまりに分かりやすすぎて寂しい気持ちにもなる。

インターネットが身近になり、情報は常に豪雨のように降り注いでくる。
そうすると、自分の目の前を通り過ぎていく情報に対して、自分にフィットするものだけを無意識に選ぶようになった。
なんなら勝手にレコメンドされるし、レコメンドされていることにすら気づかない。

触れる情報が多すぎるからこそ、自分にとって瞬時に分かるものしか目に止めなくなってしまう。
瞬時に情報をジャッジし、分かって気に入ったものだけを読み、簡単に共感して簡単にシェアするようになった。
「何が言いたいんだろう?」「この角度から考えたらそれは違うのでは?」と心に留める時間はない。

対して、心に響いて留め続ける考えや表現は、解釈がブレる「わかりづらいもの」だったりする。
文章でも映画でも音楽でも、「こう言いたかったのでは?」「伏線にこんな意味を込めたのでは?」そう考えるものは、心に響いているが万人に分かりやすい表現でははないのだろう。

他者への寛容は理解し合うことだけではなく、わからないを残すこと、わからないことを認めることでもたらされる。
万人にとって分かりやすいことは、表面的に相手に理解させているにすぎない。

しかしわからないことは人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えなければならない。
わからないに耐えるには、他人は簡単に理解できないと自覚することから始めなければならないのかもしれない。




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