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監獄から湖へ:「退行」で読み解く『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』

Ⓒ2001 静山社

監督:アルフォンソ・キュアロン
原作:J・K・ローリング
公開:2004年

① 序論:『ハリー・ポッター』シリーズの文学的評価について

J・K・ローリング『ハリー・ポッター』シリーズは、歴史的な大ヒットにもかかわらず文学者や批評家から高評価を得てきたとは言い難い。シリーズへの批判は伊達桃子の論文⁽¹⁾で多く例示され、簡潔にまとめられているのでそのまま引用する:①ステレオタイプな登場人物、②はっきりした善悪二元論、③メロドラマ的な展開。
 伊達はこれらの要素がシリーズ特有のものなのか、それともファンタジーというジャンルそのものが内包する「長所」であるのかを検証し、ファンタジーではそれらが長所として機能することを、批判内容を丁寧に訂正しながら論じている。導き出される結論も誠実な内容で個人的には好感が持てる:

この作品を正しく評価するには、シリーズ全体として検討する必要がある。シリーズの進展につれて、ハリーの成長に合わせるように、作品自体の長さや語彙、そして内容も変化している。[……]ここに描かれているのは、子どもから青年へと成長する人物の世界観の変化である。[……]ローリングは、はじめから完成された緻密な別世界を描くのではなく、主人公とともに変化し、奥行きと陰影を増していく世界を描くことで、成長のひとつの本質をとらえている。

pp.12-3

 ただし、伊達の論はあくまでもジャンル批評の一枠に留まっている節がある。論の冒頭で「文学的な評価はかならずしも高くなく、特に文芸批評の立場からは、たびたび手厳しい批判が行われている」(p. 1)ことを問題提起しているにもかかわらず、「ファンタジーとしての『ハリー・ポッター』を分析すること」(p. 4)に終始しているため、「ファンタジーとして優れているのは分かったけど、でも結局文学的には優れていないよね」という逃げ道が生まれてしまっており、結果批判的意見に対する反論としての効果が薄れているのではないだろうか。

 上記課題を踏まえ、本論はファンタジー論から距離を取ったオーソドックスな文学理論を使用した『ハリー・ポッター』批評の一例を模索することを目的とする。本論の立場は伊達の論へのカウンターではなく、伊達と同様の結論に別の方向から迫ることができないか、というものである。以下二点のキーワードから『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』の映画版について検証する。
【1】監獄
【2】鏡像段階

② 「退行」のイメージ

伊達はシリーズのキーワードとしてハリーの「成長」に目をつけていたが、ハリーの成長は常に「退行」のイメージに貫かれていることを本章で指摘したい。
 まずは舞台設定について。ハリーの成長の舞台はホグワーツを中心とする魔法界であるが、魔法界はヴィクトリア女王時代を想起させる「古き良き」世界として設定されており、物語が1990年代のイギリスで展開されることを加味すれば、ハリーは20世紀終盤から19世紀終盤に「退行」することで成長が促進されるキャラクターだと言えるだろう。
 続いてシリーズ全体の構成について。物語全体を貫く主筋がハリーVSヴォルデモートの宿命の戦いであることは間違いない。そして、そのヴォルデモートはハリーが「過去」一度倒した敵であり、またハリーの両親=ルーツを亡き者にした存在でもある。つまり、ヴォルデモートとの戦いを通じてハリーが直面するものは、自らの過去とルーツそのものとなっており、要約すれば『ハリー・ポッター』シリーズとは「ハリーが過去へと『退行』し、自身のルーツと対峙することで成長する物語」となるのである。
 ハリーは第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』冒頭で心無い引き取り手ダーズリー一家に冷遇された状態で登場する。そのハリーが最終第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』で愛する家族を得て物語が終了する。つまり、本シリーズは家族を喪失した一人の少年が家族を再構築するまでを描いた物語とも解釈でき、そのための手段として彼は既に失われた自らのルーツまで「退行」する必要があったのである。

 さて、シリーズ全体を貫くモチーフが「退行」なのだとしたら、その色が最も分かりやすい巻が第3巻『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』であろう。本作のキーアイテム・逆転時計(タイムターナー)は「時間を巻き戻す」という露骨なまでに退行を体現するものとなっており、更にシリウス・ブラックの登場によりハリーのルーツへの糸口が示される点も見逃せない。
 次章以降は、シリウスの行動とハリーの行動から『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』における退行の要素を更に細かく深掘りしたい。

③ シリウスの移動行為における退行現象

本作は唯一ハリーが自らの意思でヴォルデモートとの戦いを行なっていない。つまり、主人公が主題に対し唯一消極的な巻だと言える。前2巻ではハリーが(ダンブルドアらに導かれた面はあるにしても)自ら主体性を発揮してヴォルデモートの企みを挫き、また次巻以降では復活したヴォルデモートとの全面的な戦いに突入することを考えると、本巻だけはハリーが主人公として機能していないと見なすことすらできそうである。
 では、第3巻において物語を展開させる人物はハリーでなく誰なのか。それこそハリーの名付け親であるシリウス・ブラックである。従って、本作を読み解くためにはどうしてもシリウスの行動を整理する必要がある。

 シリウスは序盤、魔法界の監獄アズカバンからの脱獄囚として取りざたされる。アズカバンには吸魂鬼(ディメンター)という対象の幸福感を吸い取り昏睡状態に至らせる闇の生物が存在し、シリウスに命を狙われていると推察されるハリーおよび周囲の人々を保護するため、ハリーのいるホグワーツに吸魂鬼が派遣されてくる。

 ここでキーワードとしたいのが序論で挙げた「監獄」である。ミシェル・フーコーが指摘しているように、監獄とは「近代的な」装置である。封建社会において絶対的な権力であった君主は身体刑(その最たるものが死刑)を行使して罪人を罰していた。しかし、18世紀の啓蒙の時代・理性の時代を経て、身体への苦痛は刑罰の構成要素とみなされなくなり、代わりに罪人を社会の一構成員として作り直す装置である「監獄」が登場する。これは刑罰が身体刑から精神刑へと移り変わったことを意味しており、フーコーは特にベンサムの考案した理想監獄(パノプティコン)に注目しているが、本論では監獄が「近代装置」であることに注視したい。
 つまり、シリウスの脱獄は「近代装置からの脱獄」なのである。彼は脱獄に際し狼に変身する「動物もどき」の能力を活用している。人間が原初的な生物にトランスフォームするこの設定は「脱獄」の行為と結びつき、「退行」という一つのモチーフに統合される。シリウスは「退行」により「退行」を成し遂げたキャラクターなのである。そんな彼がハリーにもたらすものが「ルーツへの糸口=退行」であることは前章にて述べた。

 シリウスは自身の濡れ衣を晴らしハリーに真実を伝えるため、彼に接触を試みる。しかし、ホグワーツでの接触は失敗に終わり、彼らの対面は叫びの屋敷まで先送りされることとなる。
 近代装置から退行してしまったシリウスはホグワーツ=学校というもう一つの近代装置の中ではハリーと接触できず、人狼ルーピンが「退行」する場所である叫びの屋敷や、鬱蒼とした自然環境である湖に移動して初めてハリーと交流できたわけであるが、これも彼の人物像と役割を考えれば納得できる。

 次章では、シリウスから主人公ハリーに視点を戻し、彼の退行について論じる。

④ 鏡像段階の表現:名付け親と湖

『ハリー・ポッター』シリーズ全体をハリーの退行による成長の物語だと見なした場合、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』においてハリーの成長は一体どのように表現されているのだろうか。前述の通り、本作のハリーは基本的に主人公としての主体性を発揮しないので、上記の問いに回答することは意外に難しい。
 そこで、序論に挙げたもう一つのキーワード「鏡像段階」の考えを拝借し、ハリーの成長について検証する。

 鏡像段階とは精神分析理論で使われる用語である。人間の生後6〜18ヶ月の段階を指し、神経系の未熟さゆえに自己と他者の境界を自覚していなかった乳児が鏡に映った自分を認識することで初めて「自我」を確立するとされている。しかし、外部から与えられた像により他者から分離された乳児は不安定な精神状態に置かれることとなり、これは父親(の役割を果たすもの)による名付け(的な行為)で去勢されるまで続く。

 作中のハリーは13歳を迎える年齢であり、既に鏡像段階は脱しているはずである。しかし、幼少期に両親を失ったハリーはまだアイデンティティを確立していないと考えられ、実際本作でも父親ジェームズと自身を同一化する場面が存在している。
 クライマックスにて、ハリーとシリウスは吸魂鬼の大群に襲われ危機に陥る。その際、守護霊の呪文で吸魂鬼を追い払い、命を救ってくれた存在をハリーは「父さんだ」と断定する。しかし、その正体は逆転時計で未来から来たハリー自身であり、ハリーが使役する守護霊こそ動物もどきだったジェームズ変身後の姿である雄鹿だった。
 このように、最終的にハリーは自身と父親を区別することに成功するわけであるが、シリウスと湖がその二つの伏線となっている。

4-1. シリウスについて
鏡像段階を脱し、自我を確立するためには父親(役)による名付けが不可欠であるが、前章で述べたようにシリウスはハリーの「名付け親」である。ハリーはシリウスと出会うことで自身のルーツへの糸口を得ると同時に、父親と自身とを区別し自我を獲得するきっかけとしている節がある。

4-2. 湖について
他者と自身を区別できていない乳児が鏡像段階に入るきっかけは「鏡」である。『ハリー・ポッター』シリーズにおいて、鏡は第1巻から登場している。映った者の願望を反射する「みぞの鏡」がそれであるが、両親との再会を望むハリーがみぞの鏡を覗くと死んだ両親が映し出されてしまうため、ハリーにとってみぞの鏡は鏡像段階へのきっかけとなるどころか他者との同一化を促進するアイテムとして機能してしまう。
 そのためか、本作ではハリーにとっての鏡は「湖」として表現されている。これは、鏡像段階が論じられる際しばしば引用されるナルキッソスの神話(湖に自己の姿を映す)とも状況が一致している。映画中盤、ハグリッドの授業にてヒッポグリフに乗って空を飛ぶハリーは湖に映った自身の姿を認める。一瞬の場面だが、この湖がハリーの自我獲得の舞台となることを考慮すれば、この場面こそ湖による鏡像段階突入を表す重要な伏線になっているのではないかと私は考えている。

 『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』にて描かれるハリーの成長は、まさに鏡像段階の再現であったと考えられる。シリウスという名付け親、湖という舞台が揃ったことで、彼は「自分を救うのは父親ではなく自分だ」と自覚することができたのである。次巻ヴォルデモートとの本格的な闘争が始まることを考えれば、この自覚が持つ意味は非常に大きい。
 鏡像段階まで退行することで自我を獲得するハリーを描いた『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』は確かにハリーの成長物語であり、伊達の主張する「子どもから青年へと成長する人物の世界観の変化」を文学的に表現した作品と言えるのではないだろうか。

⑤ まとめ

〇ハリーの成長=退行のイメージ
・ヴィクトリア朝時代への退行
・ルーツ=両親への退行

〇『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』における退行
・シリウス:監獄 ▶︎ 学校 ▶︎ 叫びの屋敷 ▶︎ 湖へ、人間 ▶︎ 狼へ
・ハリー:鏡像段階=名付け親と湖、「父親」ではなく「自分」こそが自分を救う=自我の獲得

【参考】
(1) 伊達桃子「ファンタジーとして見た『ハリー・ポッター』」『奈良法学会雑誌』第20巻3・4号, pp.1-17, 2008.

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