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パプリカはなぜ「女性」か:今敏『パプリカ』における男性差別

Ⓒ2006 パプリカ製作委員会

監督:今敏
原作:筒井康隆
公開:2006年

① 序論:マスキュリズムについて

未だ語られることの少ない社会問題の一つとして「男性差別」が挙げられるだろう。フェミニズムの巨大な潮流の中で長らく無視されてきたこの問題は90年代になってようやくワレン・ファレルらにより開拓され始め(日本語への翻訳は約20年後)、思想的にはポストモダニズムと、戦略的にはメディアと結びついて暴走する「絶対権力」フェミニズムへのカウンターとなり得るか、今まさに瀬戸際を迎えていると言える。例えば、2024年現在大きな話題となっている松本人志の性加害問題を(センシティブな議題なので断言は決してできないが)「男性差別」「ミサンドリー」「マスキュリズム」といったキーワードで捉え直す人たちがもっと発言権を持って良いのではないかと私は考えている。

 さて、男性差別=マスキュリズムの問題を社会的なレベルで提起したのがファレルだとしたら、文化的なレベルで提起したのはポール・ナサンソン&キャサリン・K・ヤングだろう。彼らは著書『Spreading Misandry: The Teaching of Contempt for Men in Popular Culture』で映画やTV番組などポピュラーカルチャーやマスコミがいかに男性差別的なイデオロギーにより組み立てられているかを暴き、結論として「今の時代に支配的な世界観は明確に女性中心主義」「革命は成功した」「今やあまりに強固に毎日の生活に横たわっている」と主張している。余談だが、2001年に出版された本著が日本語に翻訳されたのは2016年と(ファレルの著作同様)非常に遅い。これは日本がいかに男性差別に無関心であるかを如実に示しているように思える。
 ナサンソン&ヤングはポピュラーカルチャーに蔓延する男性差別をいくつかの段階に分類して論じているが、それら全てに共通する特徴を以下のように明記している。少し長いがそのまま引用する(p.30)

①全ての主要な女性キャラクターはヒロイックである(彼女自身を含めた善を進んで守る、または守ることができる)。
②全ての男性キャラクターは精神異常者で(善行を選択する能力がなく)、悪で(善を自らの意志でせず)、能力不十分であるか、またはこれら全てである。
③女性キャラクターたちが内なる力を発達させて闘うまで、個人または集団でも、彼女たちは男性キャラクターの被害者である。
④彼らの真実の本来の姿が明らかにされると、男性キャラクターはしばしば感じのよい、慈愛に満ちて、倍頼できる人物になる。
⑤女性キャラクターは既にフェミニストであるか、彼女たちの人生におきたトラウマ的な出来事を共有する対話の用意ができているかのいずれかである。
そして⑥邪悪か異常者である男キャラクターはしばしば死や“手術”によって抹殺され、その不適格な人物は友人の女性と接することを通して「名誉女性」に変わる。象徴としてのマイノリティの男性は特に、フェミニズムが性差別にも人種差別にも反対していることを見せるためとしてしばしば地位を与えられる。

久米泰介訳『広がるミサンドリー:ポピュラーカルチャー、メディアにおける男性差別』

 本論では上記特徴を踏まえた上で、ジェップス作品(=女性が男性により酷い目に遭わされる作品)として語られることが多い映画『パプリカ』(今敏監督、筒井康隆原作)の男性差別的な側面に注目し、さらに本作を「アンチジェノセントリズム映画」(=アンチ女性中心主義映画)に位置づけられる可能性について論じたい。

② 千葉敦子は本当に「ジェップス」か

『パプリカ』は夢/現実の境界がDCミニという機械により崩れることによって発生する「闘争」の物語である。闘争は主に3つのフェーズで発生する:①DCミニを巡る研究者同士の覇権争い、②千葉敦子とパプリカによる自我獲得の争い、③千葉敦子という女性を巡る男性同士の争い。
 特に③に関して、『パプリカ』は一見オブジェクティフィケート(モノ化)された女性の身体を性欲と暴力で支配する男性という構図が分かりやすく視覚化された映画のように思えるが、ほぼ紅一点の主人公千葉敦子は被害者としてステレオタイプ化された女性像から実は大きく逸脱しており、男性に対し加害者性すら発揮している。

 本作は「私の夢が、犯されている」をキャッチコピーとしている。ポスターには千葉敦子の変装であるパプリカのビジュアルが印象的に配置され、あたかも彼女(の夢)が一方的に凌辱されるような印象を与えるが、大前提として他人の夢を最初に犯した(正確には覗いて干渉した)のは千葉本人である。本来ならば彼女こそが人の夢を犯す加害者として語られるべきであるが、作中千葉の「夢への越権行為」は「治療」という善なる行為として正当化され視聴者に提示される。彼女自身も当然のように夢治療は「支配ではなく共感」と主張している。
 しかし、ここで注目しなければならないのは千葉敦子のパーソナリティである。彼女の人格はとても共感的とは言い難いのだ。同僚の時田に「脂肪が厚くて神経まで届かない」「人のマインドを持ち合わせないマッドサイエンティスト」と暴言を吐き、同じく同僚の小山内に「すぐに言葉で人を操ろうとするのは良くない癖」と指摘され、挙げ句実体化したパプリカに「言うことを聞きなさい」と叫ぶも「いつでも自分が正しいわけじゃないでしょ」と返される千葉の人間性は完全に「支配者側」であると判断できる。にもかかわらず「善なる治療者」「正義の科学者」という彼女の立場は作中一切揺るがない。
 ナサンソン&ヤングの掲げた「6つの特徴」一つ目を思い出してほしい:「全ての主要な女性キャラクターはヒロイックである(彼女自身を含めた善を進んで守る、または守ることができる)」。『パプリカ』の根底には「女性=善」というステレオタイプなイデオロギーが横たわっている。
 同時に「男性=悪」という構図も物語の前提となっている。「6つの特徴」二つ目を思い起こしてほしい:「全ての男性キャラクターは精神異常者で(善行を選択する能力がなく)、悪で(善を自らの意志でせず)、能力不十分であるか、またはこれら全てである」。本作では千葉以外にもDCミニを使用し人の夢を犯す「男性」が登場するが、彼らの行為はれっきとした「テロ」として治療とは真逆にカテゴライズされる。
 夢への侵入行為を「善/悪」「治療/テロ」「共感/支配」に二分したのは物語の都合上仕方ないかもしれないが、問題は「善・治療・共感」の担い手として千葉が抜擢された理由である。千葉が共感的な善人であれば何の問題もないが、前述のように彼女は支配的な性格であり、本来は「悪・テロ・支配」を体現すべき人物のように思えてならない。私がここで強く指摘したいのは、千葉=パプリカを善なる治療家として抜擢したのが「女性=善/男性=悪」というミサンドリックなイデオロギーそのものだということだ。他人の夢を「犯す」男性主人公などフェミニズムの革命が成功した社会にあってはならない存在だろう。つまり、パプリカは女性でなくてはならなかったのである。

 さらに、千葉敦子の加害行為について論を進める。彼女の加害行為は暴言によって成り立っている。時田への暴言については前述の通りだが、小山内に対する暴言も負けず劣らず印象的だ。
 千葉はパプリカとして昏睡状態に陥った同僚氷室の夢に侵入する。しかし、研究室理事長である男性乾とその部下小山内の罠にかかり、パプリカは夢の中で彼らから逃走する羽目になる。一連の流れの中で彼女は孫悟空 ▶ ティンカーベル ▶ スフィンクス ▶ 人魚姫 ▶ ピノキオ ▶ (もう一度)孫悟空と変身を繰り返すが、変身対象がいずれも従者的なキャラクターだと私には感じられる(三蔵法師、ピーターパン、オイディプス、王子様、ジェッペットが各々の属する主体)。うがった見方だが、直後小山内に捕らえられた描写もあいまって、一連の変身対象が「男性的主体に従属する女性性」を強調すべく選出されているように思えてくる。
 捕らえられた状態でパプリカは小山内に「あなたはもっと利口だったでしょ?」「凡人に何が分かるの?」と彼の能力を見下すような発言を繰り返す。絵面だけ見れば非常に「ジェップス」な場面に仕上がっているため見落としてしまいがちであるが、彼女は「男性は女性より劣る存在である」というイデオロギーを利用することで小山内を挑発している。この点は見逃してはならない。
 しかしながら、彼女の加害者性は変身や捕縛といったジェップス的な場面作りによって「免責」されている。パプリカと小山内の対峙シーンに男性差別要素を感じる視聴者は稀だろう。それだけ「女性=善/男性=悪」のイデオロギーは強固な前提となっているのである。

③ 男性の「醜悪化」「無力化」「怪物化」

千葉敦子が善なる治療家として活躍する一方、『パプリカ』における男性たちはことごとく「醜悪化」「無力化」「怪物化」されている。

3-1:醜悪化
主な男性キャラクター6人:時田浩作、島寅次郎、粉川利美、乾清次郎、小山内守雄、氷室啓の内、過剰に醜悪化された人物として時田、島、乾が挙げられる。
 時田はエレベーターに詰まって出られなくなるほどの異常な巨漢であり、容姿端麗な千葉と比較するとほとんど怪物のような様相を呈している。島は禿げ頭に不自然な低身長、巨大な顔という見た目で、男性の外見的醜さが強調されている。乾は島と比べて顔立ちは端正だが、萎えた足を夢の中で補填する過程で外見が醜悪化していく。
 3人の内もっとも特徴的に醜悪化されるのは乾であろう。彼は最初の見た目こそまともだが中身の醜悪さが徐々に外見へと露呈していく男性であり、外見がどうあろうとそこに内包された男性性こそを悪と見なすミサンドリックフェミニズムを体現する男性像となっている。

3-2:無力化
無力化の犠牲者は時田、島、粉川である。
 時田が表象する二つの男性差別はいずれも男性の無力化を前提としている:①男性は女性よりも未熟である、②それゆえ女性のサポートを必要としている。時田は研究に没頭するあまり周りが見えなくなる「子ども」として描かれており、「優秀な女性」千葉が橋渡しとなることで初めて思う存分才能を発揮できる。しかしながら「作るのは僕 [=時田]、どう使うのかはあっちゃん [=千葉]の仕事」という時田の台詞が示すのは、DCミニ開発はあくまで時田の成果だという事実である。千葉は時田の研究の舵取りをしているに過ぎず、いわば研究能力を時田に依存している。にもかかわらず、彼らは作中「対等な研究パートナー」と見なされ、さらに人格的には「千葉の方が優れている」ように扱われる。男性としても研究者としても時田は無力化されている。
 島は研究室の所長というポジションだが、肝心な場面で何度も「これからどうすれば良い?」「すまんたのむ」と千葉に決断や行動を委ねている。島が体現するのは女性よりもリーダーシップと行動力に劣る男性像であり、「男性は女性よりも能力的に劣っている」というイデオロギーは彼の無力化を通じ強化されている。
 そして、もっとも無力化された男性はパプリカに不安神経症の治療を受ける刑事粉川であろう。彼は警官であるにもかかわらず作中で一切事件を解決しない。代わりに彼が行うのは「内的世界の無償提供」「女性への奉仕」であり、パプリカに男性性の全てを捧げることで引き換えに己のトラウマを克服するだけのキャラクターとなっている。ただし、トラウマを克服した粉川が刑事として活躍するのであれば「女性による男性性の回復」を好意的に解釈することもできる。しかし、彼がトラウマを克服した後実際に行った行為はただ「パプリカを救うこと」であった。つまり、粉川はパプリカの治療によって彼女に従順な兵士へと作り変えられてしまったのである。これでは男性性の回復どころか単なる去勢と同じである。従って、粉川こそがもっとも無力化された男性であると解釈できる。

3-3:怪物化
怪物化の被害は粉川を除く5人が被っている。
 言うまでもなく代表は乾である。彼は萎えた下半身へのコンプレックスを強く抱えている。夢の中で気味悪くうごめく植物に下半身を置き換え、終いには巨大な黒い裸身(パプリカ曰く「暗黒大魔王」)となって世界を手中に収めんとする。乾の怪物化は男性性の暴力が世界を破壊するという古典的な偏見を忠実になぞっている。
 最終的に乾は千葉敦子に飲みこまれ消滅する。この場面は心理学的なアプローチで本作を読み解こうとする研究者を悩ませているようだが⁽¹⁾⁽²⁾、マスキュリズムの観点を用いれば説明は可能である。ナサンソン&ヤングの「6つの特徴」その6を思い起こしてほしい:「邪悪か異常者である男キャラクターはしばしば死や“手術”によって抹殺され、その不適格な人物は友人の女性と接することを通して「名誉女性」に変わる」。つまり、邪悪な異常者である男性乾が千葉敦子に飲みこまれ一体化することで「死」と引き換えに「名誉女性」へと昇格を果たすのが、このクライマックスなのである。乾が消滅することで破壊された街並みは日常へと戻る。その象徴としてそびえ立った千葉の裸体が描写される。「男性=破壊者/女性=平和の回復者」というステレオタイプが生んだラストシーンとしてこれほど相応しいものはないだろう。
 また、乾の部下である小山内も体を乾に乗っ取られ怪物へと変貌する。秀逸なのはその姿を「気持ちわり」と評するのが同じ男性の粉川という点で、男性に男性を非難させることで女性の加害者性を巧みに隠匿している。
 最後に時田、島、氷室についてだが、彼らは夢の中で不格好なロボット、パレードの王、不気味な日本人形といった怪物に変身している。これは可憐な中国娘や蝶に変身する千葉とは対照的であり、「醜い本性の男性/可憐な本性の女性」というステレオタイプを強調する。

④ 結論:それでも『パプリカ』がアンチジェノセントリズム映画である理由

前章までで映画『パプリカ』における女性の加害者性とその隠匿、男性の醜悪化・無力化・怪物化について述べ、本作のミサンドリックな側面を列挙してきたが、それでも私は本作がミサンドリックフェミニズムを体現した作品だとは思っていない。
 大前提として、本作は筒井康隆による同名の小説を原作としている。筒井は(少なくともある時期までは)男性と女性を二項対立として区別してはおらず、男も女も一皮むけば皆生殖本能の奴隷に過ぎないと見なしていたのではないかと私は推測している。代表例は『東海道戦争』と『パプリカ』であろう。原作版の千葉は男性キャラクターに負けず劣らず性交渉に積極的で、敵味方かかわらず発情しまくるせいで主人公としていまいち信用がおけないほどである。
 映画版の千葉の「性の解放度合い」は原作ほどではないが、その代わり彼女は自身の加害者性と向き合い反省できるキャラクターとしてリメイクされている。象徴的な場面は先に触れたパプリカとの対峙シーンである。ユング的に解釈すればパプリカは抑圧された千葉の無意識が形になった存在で、千葉=ペルソナ、パプリカ=シャドウとなる。つまり、「いつでも自分が正しいわけじゃないでしょ」という指摘は千葉自身から発せられた自己批判なのである。

 マスキュリズムが批判するのは「自己批判なきフェミニズム」である。反省を失えばイデオロギーは宗教性を帯び、盲目的な啓蒙主義へと結びつく。しかし、『パプリカ』は多くのミサンドリックな要素で埋めつくされてはいるものの、自己批判の精神を失っていない。そのように考えると、『パプリカ』はミサンドリックフェミニズムの現状をパロディックに暴き出し、千葉敦子の行動を通じて自己批判をうながす「アンチジェノセントリズム映画」と見なせるのではないだろうか。

【参考】
(1) 宮本裕子「今敏による『パプリカ』の翻案に見る、分裂する主人公」『明治学院大学言語文化研究所紀要(2019)』、2019。
(2)

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