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ジョン・ヴァーリイ「残像」読解:言語類型からの脱却

Ⓒ2015 早川書房

① 4種類の触覚言語

ジョン・ヴァーリイ「残像」に登場するケラーと呼ばれる視聴覚障害者たちのコミューンには触覚のみを前提とした特殊な言語使用法が存在する。本作のSF的なアイデアは、4種類の触覚言語(ハンドトーク、ショートハンド、ボディトーク、タッチ)の中でも「ネイティブな」触覚言語話者しか精髄を体得できない「タッチ」により、音声言語の類型から脱却し認知システムを再構築する、という言語学的なアプローチに集約されている。そのため、本作をSFとして楽しむためにはある程度言語学の外観を把握しておく必要があるだろう。

 まずは4種類の触覚言語の概要を整理したい。一つめのハンドトークはいわゆる国際指文字アルファベットのことであり、音声言語の構文や品詞をそのまま手話として翻訳したものにすぎない。ケラーの住民にとっては「赤ん坊の言葉」(225)であり、主にケラー外部の「一般人」たちと意思疎通を図るために使用されている。
 続いてショートハンドは「どんな言語のどんな単語でも、手のふたつの動きで表現できてしまう」(226)触覚言語であり、単なる音声言語の略号であるハンドトークとは違い独自の構造を持っている。ショートハンドはケラー外部の人間である主人公が「はっきり言ってしまうと [どんな音声言語よりも] すぐれていた」(226)と評するほど相互コミュニケーションに適しているようだが、その文法体系や語用法が詳細に説明されるわけではないため、残念ながら音声言語との差異を分析することはできない。我々読者にできることはただ作中の描写からその独自性と発展性を類推することだけである。
 ショートハンドだけでも音声言語と根本から構造が異なる新たな言語体系として十分に興味深いが、本作で提示される触覚言語には更に体得の難しい「ボディトーク」と「タッチ」が存在する。ボディトークはショートハンドを全身の触れ合いに拡張させた触覚言語であると考えられ、肉体同士の密な接触を前提とするため性行為すらもその一部に含まれている。心拍や汗や匂いなども表現の一部として認識されるため嘘をつくことができない言語とされ、また相手や場面によって表現方法が流動的に変異する「構造を持たない言語」として定義されている。
 そして、上記の「構造を持たない」という特徴が極限まで磨かれた言語がタッチである。タッチは「決して同じ状態にとどまらない」(241)、「言語を次々と生み出す言語」(242)であり、ショートハンドとボディトークを覚えると自然と流れてくる両者の混合物であるとされている。

 肝心な点は、ハンドトーク▶ショートハンド▶ボディトーク▶タッチの順に普遍文法が否定されていることだろう。ハンドトークは音声言語の文法に基づいた手話であるが、ショートハンドは音声言語の文法を捨て独自の構造を有している。そしてボディトークとタッチに至っては文法や構造という概念すら存在しない。
 本作は、視聴覚障害を持たない主人公がケラーに順応し4種の触覚言語を順に体得していく物語と見なすことができるが、その過程で彼の認知システムは「視覚と聴覚への依存」から「視覚と聴覚の軽視」へと大きく変容することとなる。言い換えると、彼の認知システムの変容は明らかに音声言語類型からの脱却と重ね合わせて描写されている。詳細は次章で論じる。

② 認知システムの再構築

本章では「統語論」をキーワードに主人公の認知システムの変容を整理したい。統語論とは言語学の一分野で、数多ある言語に普遍的な構造規則を見出そうという考え方であり、「言語獲得は人間の遺伝子に予め組み込まれた普遍文法に沿って達成される」という、言語をアプリオリにとらえる発想が前提にある。この発想は「生成文法」と呼ばれ、ノーム・チョムスキーを筆頭に言語学の中では主要な位置を占めているが、多くの反例も指摘されている。また、チョムスキーらの唱える「言語本能説」に対し「言語使用説」(言語は実際の運用を通じてしか習得されないとする説)を唱えるヴィヴィアン・エヴァンズは「たった一言語の研究成果がすべての言語に適応できると錯覚している」と統語論の問題点を指摘している。

 エヴァンズの指摘する統語論の問題点を私なりに解釈すると以下のような説明となる。「言語が話者の世界観を決定する」という考えが存在する。言語本能説派が否定している発想の一つではあるが、有名なウォーフ仮説に代表されるよう、我々はシニフィアンの世界から逃れることができないという考え方自体は決して珍しいものではなく、私としても説得力のある説だと感じている。しかし、この説を採用するとすれば、統語論に対して以下の疑問が生じてしまう。数多ある言語が結局すべて一つの構造に回帰されるとしたら、どのような言語の話者であってもたった一つの統一された世界観を共有している、という極論に繋がってしまうのではないだろうか。

 ケラーに足を踏みいれる前の主人公はまさにそのような状況の渦中にいる。一般的な音声言語話者に過ぎない彼は、統一された世界観が共有された「統語論的世界」に組み込まれている。世界観の根底にあるものは恐らく「資本主義的な闘争原理」だろう。
 主人公は冒頭、自らが資本主義的闘争に敗れて失業者となり、日本への密航を企てていたことを告白する。当時(1988年)の日本はバブル経済の真っ只中にあるため、主人公にとって「資本主義とは異なる世界観を発見する場」というよりは「第二の経済闘争の場」であったと推測される。つまり、主人公の認知は「経済闘争に参加する」という一つの体系に「統語」されている。この場合の「統語」はあくまでも比喩的な意味で、「本来アポステリオリなものをアプリオリな体系として受け入れていること」程度の意味だと思ってほしい。実際に彼は「シカゴ [当時の主人公にとって経済闘争の中心地] は避けようのないものだと思っていた」(172)と語っており、「シカゴの認知体系」に「統語」されている様子が見て取れる。
 しかし、結局主人公は日本への密航の代わりにカリフォルニアへの旅を選ぶ。さまざまなコミューンに宿泊する中で、主人公は「シカゴで暮らさなくてすむような生き方を試し」ている人々と出会い(172)、少なくともシカゴ的な認知システム以外のコードが存在し得るかもしれない可能性を感じている。ただし、この時点ではむしろ各コミューンの失敗や行き詰まりの方に目がいっており、「シカゴのコード」を捨て去るまでには至っていない。

 その認知が一変するのはケラーに足を踏み入れてからである。主人公は4種類の触覚言語を習得する過程で「視覚の軽視」(217)▶「音声言語の軽視」(226)▶「視覚と聴覚の否定」(244)と、段階的に「シカゴのコード」を形成する認知システムを捨て去っている。その途上でシカゴ的な世界観を「あんなものは結局は無意味な書類の並べ替えでしかなく、国民総生産をあげる役にしか立たなかった」(229)と客観視するまでに至っている。
 このように、認知システムの再構築が言語の再構築と不可分に語られていることが本作の重要な点である。主人公がケラーの女性ピンクから投げかけられる「あなたも言葉での表現から自由になればいいのに」(205)という台詞は単にコミュニケーション方法のみに言及しているわけではなく、音声を前提とした言語類型から脱却し認知システムを再構築しろ、と示唆しているのである。
 本作は、音声言語の文法および資本主義的な経済闘争というややもすればアプリオリなシステムと見なされてしまう二つの要素を重ね合わせ、「統語のない触覚言語」というアイデアを駆使することで両者を全く新しい形へと再構築してみせようとする文学的な試みなのである。

 しかしながら、以下二点の描写が不十分である点は指摘せざるを得ないだろう:①ショートハンド、ボディトーク、タッチがなぜ音声言語より優れているのか説明が足りていない。特に、ショートハンドに関しては音声言語とは異なる独立した構造を持つ言語としてもう少し踏み込んだ文法体系の解説があっても良いのではないだろうか。②タッチを極めたことで認知システムが完全に変容した後の住民を描いていない。恐らくSF要素をなるべく控えめにしたい意図があったのだろうが、既存の言語類型から脱却した新たな認知領域の可能性を示すためには必要な描写だったのではないだろうか。

③ 最後に

主人公もケラーの住民も立場は違えどアプリオリとみなされがちな要因で社会的な周縁に追いやられている。主人公は資本主義的な経済闘争に敗れた失業者であり、ケラーの住民も第一世代は全員先天的な視聴覚障害者である。
 主人公がケラーに惹かれた原因は周縁性という共通点と、独自の認知システムという相違点の二つであろう。彼らの認知システムは高度に発展した独自の触覚言語によって既知の言語類型から脱却した成果である。主人公もまたハンドトーク▶ショートハンド▶ボディトーク▶タッチを順に習得することにより、今まで彼を縛っていた「シカゴのコード」という統語的な認知システムから解放される。
 認知と言語は不可分であり、「統語なき言語」により別次元の認知を達成できるという可能性を示唆する本作は、私などではなく高いレベルで言語学を修めた研究者により語り直されるべき作品ではないだろうか。

【作品概要】
ジョン・ヴァーリイ作、内田昌之訳「残像」『逆行の夏:ジョン・ヴァーリイ傑作選』所収(pp.165-257)、2015、早川書房

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