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ネットで、書くわ書かれるわもうええわ

タイトルは川上未映子さんの「先端で、さすわさされるわそらええわ」のパクリです。すみません。

10年と少し前、母がブログを始めた。コーチングのセミナーを受けて、周りに感化されたのだという。コーチの資格を取って、フリーランスで仕事をしていきたい気持ちもあるらしい。そのためにはネット上で顔を売る必要もある。フェイスブック等のSNSにも手を出しつつ、メインで情報を発信していたのはブログだった。

身辺雑記とセミナーでの学びに終始してくれれば良かったのだが、家族をトピックにすることもしばしば。とりわけ「冗談きついわ」と思ったのは、わたしの不良時代の話だった。

ほんの半年ほど、不登校だったことがある。

学校行くのだるい、しんどい、で何となく行けない日が続き、ようやっと登校しても保健室に直行か教室で寝っぱなしだった。通信表では堂々の「2」を取り、あと一歩、いや半歩くらいで留年という状況まで行った。

母は当時について、思うところ山のごとしであったらしい。自分がいかにダメな母親であったかを自省し、当時の経験から得た学びとやらを切々とブログに書き綴るのだ。何が困ると言えば、実名かつ顔出しで書くのである。

日本には言論の自由があり、母には、当事者としてわたしの不登校について書く権利がある。でも同時に、わたしにもプライバシーの権利があり、肖像権がある。せめて一言断って、事務所通して……ときつくならないように冗談も交えつつ再三再四頼むのだが、聞かない。

暴走するトロッコのような母に対して、わたしは無力であった。唯一できたのは、母に会わないこと、連絡を取らないこと、そうしてわたしの情報をかけらも渡さないこと、これしかなかった。2020年の10月に、母のラインをブロックした。折しも母の誕生日だった。

それから3年が経った去年の8月、身内の不幸で地元に帰省した。夏の暑い日だった。久しぶりに会った母は少し老けていたが、元気そうにしていた。他の親族もいる手前、わたしはできる限り和やかに話をし、粛々と葬儀に参列した。内心は、とにかく無だった。
与えられる刺激に対して脊髄反射で微笑み、悲しい顔をし、適当なことを喋る。そうやってつつがなく半日を過ごし、重たい香典返しを提げて帰路に就いた。

電車の中で、わたしはもう母に対して怒ってはいないのだと気づいた。だが、それは決して許しではなかった。この時わたしは、怒りを解くことと許すことは別物なのだと知った。

許すためには何が必要だろうか。わたしは考える。母が自分のしたことが何だったのかを真に理解し、二度と同じことをしないと確信が持てたら、その時は許せるかもしれない。
あるいは、自分も母に対して同様の後ろめたさを抱え「お互い様」の意識を持てたら、許せるかもしれない。いつかの未来で母を許した時、わたしは許しに必要なものが何なのかを知るだろう。

母と再会して1年ほどが経った今、「いつかの未来」は永遠に来ないようにも、案外すぐ来るようにも思える。
きっと母と親しく付き合う日は来ないだろうと思いながら、それでも、胸の中で根雪のように固く凝ったものが解ける時を待っている。

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