僕らはきっと、裸の王様。そんな話。


こんにちは、相川です。
皆さんは、『裸の王様』はご存知だと思います。
王様や家来達は詐欺師達に騙され、『愚か者には見えない生地』で出来た服を買い、それを着てパレードをするのですが、小さな子供が「王様は何も着ていない」と叫ぶ。
それが民衆にも波及し、王様は裸だという声がそこかしこで出る中、パレードは続く。という話ですよね。
そんな『裸の王様』は周りをイエスマンで固めた、自分のことが見えていない権力者に対するメタファーとして用いられることが時折あります。
けれども、一般市民に分類される我々も、実は裸の王様、あるいはそれを肯定してしまう家来なのかもしれない。今日はそんな話をしていこうと思います。
裸の王様において、小さな子供が叫ばない限り、民衆も家来も、そして王様も『愚か者には見えない服』を信じ続ける、存在するという振りをする訳です。
その現象は、我々の社会でも日々起こっているのでは無いでしょうか?
順を追って説明していきましょう。
我々の社会は、明らかに形而上のもの、現実に存在するはずの無いものが如何にもあるかの様に扱われていることがあります。
例えばお金。これは普遍的な、基準としての価値を与えるものですが、本来、ありえないものです。
それは何故か?人の好みは、千差万別、完璧に同じという訳ではないからです。
いやいや、そんなことはないよ。みんなお金は欲しいでしょ、と思う人もいると思います。
では、ある例を考えてみましょう。
ここに3歳の子供がいるとします。
その子は、チョコレートが大好き。そして、お金のことを全く知りません。
その子の前に、20円のチョコレートと500円玉を出したとしましょう。どちらか好きな方を取りなさい、とその子に言います。その子は、迷わず20円のチョコレートを取るでしょう。
詭弁と思われるかもしれませんが、これが本来の姿です。我々は、集まって人間社会を作る上で、便宜的に“お金”というものを考え出し、それを信仰しているに過ぎないのです。
その点においては、お金は神と近いのかもしれません。神は元来、我々が自然や世界などを説明する為に、頭の中で便宜上作り出したものだったのですから。
お金は、言わば『馬鹿には見えない服』なのです。ですから、子供がひとたび叫んだら、その価値は夢から醒めるように消えていってしまいます。
その子供の叫びの結果が、ハイパーインフレです。
第一次大戦に敗北したドイツにおいて、当時使われていた紙幣は価値を失いました。教科書などで札束で遊ぶ子供の写真を見たことがありませんか。それです。
紙幣が価値を失ったのは何故か?ドイツマルクを皆が信用しなくなったからです。綺麗な服だと必死に信じていたものは、存在しなかった。

そういうものは、他にもあります。
例えば、普遍的人権もそう。
かつて、そのような概念はありませんでした。古代シュメール人に人権の説明をしても、分かって貰えないでしょう。そもそも、人権を表すに適当な言葉が無いかもしれませんね。
人権の授業をするとき、「これは人類が勝ち取ったものだ」という説明をされた人もいるかもしれません。なぜそんなことを言うのか?人権を人々に信じさせる以前に、それは無かったからです。
私達は、無いものを必死に信じ込もうとする裸の王様のなのでしょう。だからこそ、そのパラダイムを壊そうとする人を何より恐れる。
我々は、子供の叫びを恐れているのです。

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