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アンパンマンと相対する概念は川谷絵音だった話──自己の変遷とアンパンマン・エゴハザード

皆さんは、ゲスの極み乙女というバンドをご存知のことと思う。そう、2015~6年くらいにヒットをかまして、いよいよ人気絶頂という時に不祥事が出て数ヶ月ほど休止したあのバンドである。(余談だが、元々バンド名がゲスの極み乙女。だった。しかし、いつの間にか句点が消えていた。個人的には、あの句点があることで中学生の逆張り的な雰囲気も出て、良かったと思うのだけれど、こればかりは仕方がない。)

そんなゲスの極み乙女のボーカルであり、作詞作曲をメインでやっているのが川谷絵音氏だ。そして、ゲスの極み乙女の最大のヒット曲が「私以外私じゃないの」であることは周知の事実だろうが、ここで少し皆さんに疑問を投げかけたい。
「私以外私じゃないの」という楽曲を作ったのは他でもない川谷絵音だ。ということは、これは彼のことを歌った歌、もしくは彼の自己が多分に投影されていると考えて良いだろう。
では、「私以外私じゃないの」は、何を表しているのか?
率直に結論を申し上げると、川谷絵音はどんな時であろうと川谷絵音であり、他の誰かになることはない。また、他者が川谷絵音であることは決してありえない。そういうことだと私は考える。

そして、私以外私じゃないのという楽曲について考えているうちに、これとは非常に対照的な楽曲があることに気がついた。
他の存在が歌詞で歌われている存在へと成り代わる。そんな歌が存在することに。
その楽曲こそがそう、皆が一度は聴いたことがある「アンパンマンマーチ」なのだ。あの歌詞をよく思い出して欲しい。
「アンパンマンは君さ」
このように歌っている。つまり、この歌詞を知っている私も記事を読んでいるあなたも、そう、アンパンマン。この歌詞を知ってしまうと、みんなアンパンマンになってしまう。このままでは「アンパンマン・エゴハザード」が発生してしまう。自我がアンパンマンと溶け合い、乗っ取られる。皆の意識がアンパンマンひとつになることで、アンパンマンによる擬似的な人類補完計画が発動する。
これは人類の終焉なのだろうか?世界はもう、アンパンマンの魔の手から逃れることは出来ないのか?バイキンマンに頼るしかないのだろうか?

いいえ、そんなことは無い。

人類にはまだ希望が残っている。そう、我らが川谷絵音だ。彼がアンパンマンになることはありえない。なぜなら、川谷絵音だけが川谷絵音になり得るのであって、アンパンマンと化した川谷絵音は川谷絵音になれない。そのアンパンマン化川谷絵音は言うなれば「かつて神だった獣達」ならぬ、「かつて川谷絵音だったアンパンマン」だろう。
けれども、川谷絵音が川谷絵音であり続ける限り、アンパンマンにはならない。否、なれないのだ。
この自己が自己そのもの、それ以外でないということをキャッチーに示したという点で、川谷絵音はルネ・デカルトと相通ずるものがあるかもしれない。我思う故に我あり。私以外私じゃないの。
しかし、話はここで終わらない。彼は後年、「私以外も私」という曲を出している。その歌詞の中にこんな一節がある。
「ねえ 誰だっけ え?わかんない」
つまりこれは、川谷絵音が川谷絵音であるという意識を喪失しかけていることを表しているのではないだろうか?
非常に危険な兆候だ。世界がアンパンマンで包まれてしまう。しかしちょっと待ってくれ。その前には
「私以外も私 それはまやかしの雨 私以外も私 だと思えるあなたは誰?」
というフレーズがある。そしてこれは何度も繰り返し登場する為、川谷絵音の中では「私以外私じゃないの意識」のほうが強いのではないかと考えられる。「私以外私じゃないの意識」と「私以外も私意識」のせめぎあいだ。
そして「私以外も私意識」は川谷絵音ではない、と先のフレーズを読めばわかる。だとしたら答えはひとつ。そう、アンパンマンだ。
「私以外も私」はかつて川谷絵音だったアンパンマンと川谷絵音の意識の対決、それを婉曲に表した楽曲なのだ。そしてこれを発表している時点で、勝敗は明確。人類の砦、川谷絵音は守られた。人類の勝ちである。
では、人類が勝利したところで今日はこの辺りにしておこう。それでは。

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