見出し画像

“終わりのエモさ”について。──あるいは夏と卒業、そして失恋。

こんにちは。お久しぶりです。相川です。
1ヶ月ほど更新が滞っていましたが、なんとか生きています。

ところで最近、人生で4回目の卒業式というものに参加しました。どうやら、私の高校生活にピリオドが打たれたらしいです。不思議なものですね。

高校では、どちらかと言うと悪い意味で色々ありましたが、それでも前日や当日の朝にはあの妙な高揚感と諦観が入り交じった感覚を味わいました。私は、自分で思っているよりも感傷的な人間らしいです。

そして、そういう感覚を最近ではよく“エモい”と形容するらしいのですが、私は最近までこの単語に対して、よく分からない信頼と不快感というアンビバレントな感情を抱いていました。けれども、高校卒業という行事を経たせいか、なんとかその老害的な不快感を取り除くことが出来ました。端的に言えば、「エモい」という言葉が好きになりました。八ツ橋の次くらいには好きです。

だから今回は、そんな“エモい”という感情と、私が“エモさ”を感じる事柄として特に思い入れのある「夏」、「卒業」、そして「失恋」について話していこうと思います。

……ひとつ言っておきますが、残念なことに(?)私は失恋した訳ではないので、その体験を語る訳ではありません。ごめんなさい。

では初めに、エモさというものについて語っていきましょうか。

私達は普段、どんなことにエモさを感じる、言い換えればどんな時に「エモい」と言ってしまうのでしょうか。

まあもちろん、「エモさをもたらすものに触れた時」にエモいと感じるでしょうが、ではどんなものがエモさをもたらすのでしょうか。

私の場合、特に夏にエモさを感じます。
自分の中にある「夏の原風景」があり、それを感じさせるものに触れた時、エモいと思うのです。

夏の原風景というのは、例えば空高く立ち上る入道雲と遠くにずっと広がる向日葵畑と草原の小高い丘にただ1本ある、簡単なブランコが枝に付けられた木、そしてその木陰で佇む麦わら帽子と白いワンピースの少女……といった具合のものです。

原風景は夏に限ってもまだまだあるのですが、とりあえずこの辺りにしておきましょう。そして、これを読んだ時に胸を締め付けられるような良さを感じた人が居たとしたら、その感覚が「エモさ」です。

我々がエモさを感じる時、良いという思いの他に、どこか切なさや喪失感というものも同時に覚えるように思えます。それは何故なのだろうとずっと考えていたのですが、遂にある結論に辿り着きました。それは同時に、説明出来ない感覚である「エモさ」の定義にもなるでしょう。

結論を申し上げますと、「エモさ」とは、「失われてしまったものに触れた時に感じる、喪失感に基づいた感傷的な良さ」だということです。

皆さんにしっくり来るかはともかく、私の結論はこうなりました。
そして、タイトルにもある「卒業」、「夏」、そして「失恋」というものに共通する点もここにあると思います。

夏の精神的原風景や、学校にいた頃の楽しかった記憶、全てを焦がすような恋の記憶。それらは皆、手の届かないところに行ってしまった。もしかしたら、はなから手の届かない夜空の星だったのかもしれない。
だからこそ、我々はある感慨をもって、それらを眺めることが出来るのです。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?