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他人の視線

2020年11月、渋谷区幡ヶ谷でホームレスの女性が近所に住んでいる男性に殺害される事件が起きた。犯行動機は、目障りだったから。

当時、毎週新宿のホームレスの人たちを路上訪問をするというボランティアをやっていたため、私はそのニュースをよく覚えている。新宿を回っている中で、このボランティアの代表の人が「最近物騒な事件も起きてますんで、くれぐれもみなさん気をつけてくださいね」とホームレスの人たちに声かけしていた。

「目立っちまったんだろうな、そのバアさんも」。あるホームレスのおっちゃんが、ボソッとつぶやいた。「目立っただけで殺されるってひどすぎませんか」私がそういうと、「まあ、そんなもんなんじゃないの。世の中。オレだっていつ殺されるか知らねえんだから」と、あっさり返された。

「やっぱり、路上生活をしていると人の視線って気になるものですか?」とさらに聞くと、「オレはかなり気にしているよ。胸張れるような生活してないしね。悪目立ちしたくない。最低限のルールは守ろうと思ってるよ」と真面目な顔で言っていた。「ま、オレたちは社会に居候してるようなもんだからな」おっちゃんは、ガハハと笑った。

社会とは、他人の視線なのかもしれない。社会で生きていくということは他人の視線を気にするということなのかもしれない。

今まで、他人の視線を気にしない人ってかっこいいと思っていた。自分を持っているって感じがするから。

でも、他人の視線を気にしないというのは、社会の中で生活していく上ではほぼ不可能なのではないか。

他人とは絶対に被らないような奇抜な格好をして街を歩いている人も、他人の視線を気にしていないわけでは無いと思う。もし気にしていなければ、ファッションという形で自己表現をする必要性がないからだ。

他人の視線を気にしていなさそうに見える人たちも、実は気にしているのだとしたら、私なんかはなおさら他人の視線を気にしながら生きている。

そして、他人の視線というのは無人島に行かないかぎり、常に私たちの外側に存在する。私たちは、人の視線を気にすることを免れ得ない。

他人の視線を気にする。社会でのルールを守る。
他人の視線を気にする。身だしなみを整える。
他人の視線を気にする。映えた写真をインスタにあげる。
他人の視線を気にする。とりあえず就職活動はしておこう。
他人の視線を気にする。あんな風にはなりたくないな。
他人の視線は、自分の視線だ。

目立っただけで殺される社会。
目障りだった他人を殺した人は、その前に、悪目立ちした自分を何度殺してきたのだろう。自分が視線に意味付けをしてしまうから、このような生きづらさを感じるのかもしれない。

他人の視線を深読みしすぎないように。それはただの「視線」にすぎないのだから。
自分に厳しい視線を向けすぎないように。それはいずれ他人への視線になるから。


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