「君の話」 三秋縋
今、逢いたい人がいる。
僕は君を知っている、でも君は僕なんか知らないだろう。いつも隅っこで君を目で追いかけていただけの僕だから。君より魅力ある人なんてあの学校にはいなかったし、きっとこの先も出会うことはないと思う。「好き」なんておこがましい。ただ僕の記憶に居てくれさえいれば、それでいい。本気でそう思っていた。ひとつ考えてみる。もし今の僕なら、何ができるだろうか。あの日に戻って君に会ったら、「僕」を伝えるだろうか。対等になって、好きになって、想いをぶつけて、、、そんな妄想は、巨大に膨れ上がった”虚”に過ぎない。青春はもう通り過ぎたんだ。過去は過去、記憶は記憶。
いま僕の中には、あのときの勇気の出ない僕だけがいる。
あなたは虚構を愛せますか?
義者。義憶の住人。虚構に生まれた架空の人物。
お金さえあれば「記憶」を買える世界。自分の理想が義憶で叶う世界。つくられた記憶のなかに人は何を求めるのか。幸せになれるのか。人は、壊れるのか。
〈レーテ〉選択した対象の記憶を消す薬。
父はよく母の名前を呼び間違えた。父には母の他に五人の妻がいた。年齢は様々、全員が義者である。母はよく僕の名前を呼び間違えた。僕は一人っ子のはずなのだけれど、母には四人の子供がいた。三人の名前には共通点があったが、僕にはなかった。架空の過去に生きている二人に取り残された僕は、愛し方も愛され方も知らない子供に育った。孤独な少年時代だった。明暗も強弱もない単調でグレーな人生だったから、そんなものは消してしまいたいと思った。
義憶によって目の前で壊れた家族と、見捨てられた僕。
”嘘”に頼る人生を辿りたくはなかった。
〈グリーングリーン〉架空の青春を生み出す薬。
間違えて届いたらしい小包を飲んでしまった僕の中に新たな記憶が生まれた。「夏凪灯花」と名乗る女の子が、僕のからっぽの記憶を彩ってくれた。幼馴染の彼女とはいろんな思い出を過ごした。近所の神社の夏祭り、学校からの帰り道、いつもの何気ない会話まで、全部が「いい」想い出だった。でも、すべてが義憶だなんて嫌だろう。作られた、なんて虚しいだろう。そんなものに縋ったって僕は幸せにはなれない。何かが壊れるくらいなら、完全なゼロになったほうがいい。「君」だって僕には要らないんだ。だから...
僕は〈レーテ〉を手に取った。
現実。何もない世界。ここには彼女はいない。
安酒でほろ酔った視界に映る白けた空を眺めながら、アパートの階段を登る。ふと、彼女を想う。彼女との思い出は楽しかった。綺麗に輝いている、僕の中にある唯一の青。理想の彼女が僕を潤わせてくれた。そんな彼女だけど、やっぱり消すべきだ。帰ったら改めて送られてきた〈レーテ〉を飲もう。虚しい記憶とは向き合えない。まっすぐな君の眼を、僕は受け入れられない。現実に生きなければならない。だから君とは生きられない。
部屋のドアノブに手を掛けたとき、隣の202号室のドアが開き、住人が顔を出した。女の子だった。年の頃は十七から二十といったところ。ちょっとそこまでジュース買いに行ってくる、というような軽装で、、、
ドアを開けかけたまま、時が止まった。見えない釘で空間に固定されたように。
僕は彼女を知っている。
透き通るように白い手足も、
長く柔らかい黒髪も、
すべて彼女のものだった。
記憶にいるはずの「夏凪灯花」が目の前にいる。思い出のはずの彼女がなぜ、だってここは「今」だ。
無言の中に、女の子の唇が動く。
「・・・・・・千尋くん?」
女の子は僕の名前を呼び、
「・・・・・・灯花?」
僕は女の子の名前を呼んだ。
一度も会ったことのない幼馴染がいる。
僕は彼女の顔を見たことがない。
声を聞いたことがない。
体に触れたことがない。
にもかかわらず、その顔立ちの愛らしさをよく知っている。
その声音の柔らかさをよく知っている。
その手のひらの温かさをよく知っている。
夏の魔法は、まだ続いている
ほたるのひかり
やみよにきえて
はかなきこころの
こいごころよ
自立できないミズゴロウより
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実在しない君との恋の話。
「君の話」 三秋縋
定価(本体720円+税) ハヤカワ文庫
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