見出し画像

「気狂いピエロ」をみて


「気狂いピエロ」を先日見ましたのでその感想をと。。
大変有名なジャン=リュック・ゴダール監督の作品ですが、私はまだこの映画の他には「勝手にしやがれ」しか見たことがなく、特別ヌーヴェルヴァーグについて詳しいわけでもないので、その手の専門的なことはよくわからないのですが、少なくとも私がここ数年で見た映画の中ではかなり印象的な映画であったことは疑いようがないことです。


私がこの映画で感じたことは簡単に言えば、『映画を見ているのだけではなく、同時に美術館で何かしらの芸術作品を見て、説明を読んでいる』ような感覚に陥ったということでした。

その中にあるストーリーだけではなく、美しい映像が永遠に続き、作り手がその映像に対し、いくつかの詩やキャラクターの言葉を利用し説明を添える。そんな映画で劇中に出てくる「絵も本も観客が勝手に解釈するもの」という言葉が私の心にものすごく重く残りました。

たま〜にアーティストの方に「俺の作った曲の意味がわからないみたいだ」みたいな発言をする人がいますが、それってかなり変だな、と長いこと思っていました。
ある意味でこの考え方はそれらに価値を感じる人が一定数いることによるうぬぼれ的なものなのかなと思います。そもそもただの人対人の会話ですらそれが本当の意味で通じているのかなんてわからないわけで、だからこそ人は一見無駄にさえ思うよう会話を積み重ね、理解を深めていくという経緯があるのではないでしょうか。
どれだけ物事を深く考えている人の話でもその人の発言を聞き手が必ずしも理解できるわけでなく、むしろ解釈の違いから生まれる副産物的なものが創作とそこからのインスピレーションのもっとも重要なところなのではないでしょうか。

そういった意味で私は劇中でこの詩を引用したことに対する監督の考え方とそれを通しての見る側へのメッセージと捉え大きな感動を覚えました。

画像1

私はどんな種類の作品にしても受け手が考えることができる間があるか、無いかというのを作品の良し、悪しとしての判断に重きを置きます。要はそれらの作品に触れた後と以前で、ほんの少しであろうと幾らかの人に新しい価値観を、考える機会を提供する。そういった作品が評価されるべきでは無いかと思っていて、映画というコンテンツで言えば少なくとも今の日本で作られているそれは大抵の場合その考えから遠く離れていて、むしろ考える必要のないわかりやすいものが好まれ、それに沿った物作りがなされていると感じ、一言で私的に「つまんない」ものが多い印象を受けます。
もちろんそれは私の考えに過ぎず、それらに私の考えとは対照的な評価を与える人が多数存在し、だあからこそ成り立っているのだ。というのも理解できます。
ただ、だからこそ、この「気狂いピエロ」などジャン=リュック・ゴダールの作り出す作品含め、受け手へ思考の間を与える作品をこれからも大切にしていくべきではないかと心から思うし、そういった作品を作る監督が多く出てくることを本当に望んでいます。


ではこの辺りで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?