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「プロヴォーク」-中平卓馬

二月ほど前に東京国立近代美術館に「中平卓馬 火–氾濫」を見に行きました。
その結果、自分なりに「プロヴォーク」然り、中平卓馬、森山大道さん達にめちゃくちゃ影響を受けてたって話。

残念ながらこの写真展に関しては、4月で終了しているので、素晴らしい展示だった。という程度の感想で留めておくことにする。

「プロヴォーク」に関しては、後日蔦屋書店で手に取ってみたのだけれど、全3巻、プラスで1巻かな?
アレ、ブレ、ボケ。白黒写真と、幾らかの人たちの文章で構成された、薄く、軽い書籍に物凄い質量と、勢いを感じるんですよね。
「プロヴォーク」が創刊されたのが1968年。
1960年代を若者として過ごした中平卓馬、森山大道、高梨豊ら写真家が、どのような思いを持ってこの写真集を作成したのか。
その思いを分かり得ないまでも考えてしまう。


銀座ルイ・ヴィトン前

昔、何かのラジオか、番組かで解剖学者の養老孟司さんが、「戦前から戦後を生きた人に多いと感じる特徴として、言葉を信用していない」という趣旨の発言をしていたのを思い出す。
戦前に「本土決戦、一億玉砕」と息巻いてやっていたと思ったら、戦後学校でまず初めにやったのは、教科書に墨を塗ることだった。今までこれが正しいと教えられてきたことを、墨を塗って訂正された。と。
そんな経験をしたら嫌でも言葉について考える。疑いを持つようになるとおっしゃっていた。
彼ら写真家も1930年代に生まれ、幼少期に戦前、戦後を経験している人たち。
そのような経験を持つ人たちが、言葉を用いての表現ではなく、それ以外の何かで表現しようと考えるのは、ある意味自然の流れだったのかもしれないと思う。
とりあえず見てみてほしい。「なんだこれ」と思う人もいるだろうと思う。
それでいいんだと思う。言葉では表現ができない何かを彼らが求めていたのであれば、言葉で表現できない何かであることは大きな意味を持つ。
それと同時に、私たちは情報過多のこの時代に生き、言葉が溢れ、言葉に溺れてしまっている人もいるように感じる。
言葉にできないことがあってもよく、なんでも説明できるわけではない。
簡単に言葉にできる対象は、言葉に溢れるこの時代にとって、ひどくつまらないものなのかもしれない。そうでないかもしれない。
この文章もまとまりがなくなってきたので、この辺りでおしまいにするが、一度見に行ってみてほしいなと思う。


東京のどこかで

おしまいにすると言っておきながら、プラスで最近思うのは、街に出て写真を撮っている人にとって、肖像権の問題はすごく重要だって話。
数年前に、富士フィルムが『FUJIFILM X100V』のプロモーションとして出した、鈴木達郎さんの撮影シーン動画で大炎上した件は、写真に関心がない人でも覚えがあるかもしれない。
あそこまで極端ではないにしても、街をプラついて写真を撮っていると、いろんな人が映る。
それありきで写真を撮っている人もたくさんいるだろうし、私もそのうちの一人だ。
写真に写った人に毎回、「こんな写真撮ったのですが、、」と話して回ったら、写真を撮りに街に出ているのか、街に出て、人と話すきっかけを作るために写真を撮っているのかすらわからなくなりそうだ。
そこまで社交的でもないわけで。
そのあたりはすごく考えていたことでもある。
その一つの解決手段というか、方法として、人は明らかに写っているんだけれど、誰なのかはわからない。誰でもありうる写真。としてこのような写真を撮るのは良いなと思った。個人的にはすごく好き。
そんなことも考えながらこの2ヶ月あたり過ごしましたというお話でした。


明治神宮外苑で


中平卓馬のプロヴォークの挑戦とは何だったのか?そして現代写真について - tabing 旅とカメラ (hatenablog.com)

「こんな撮られ方はイヤだ」富士フイルム『X100V』公式動画が炎上。公開後すぐ削除に→お詫びを発表(篠原修司)#Yahooニュースhttps://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ca40e81fa3e9419261852e67479b1c96e1d44919


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