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Mommy

少し前に「Mommy」というグザヴィエ・ドラン監督が28歳の時にとった作品を見たのでその感想を。


監督が有名な方で「たかが世界の終わり」など何作品か見たい見たいと思ってはいたのですが、結果的にこの「Mommy」が私が見た最初の彼の作品ということになりました。

全体を通し重たい内容なのですが、途中それを感じさせないほどの軽やかな空気感というか、主要登場人物三人いるのですが主人公がADHD、その母親が職を失い、主人公一家の良き友人となる元教員は吃音により離職とそれぞれ社会から阻害された人達であり、生活の中で何かしらの難を感じている人達に焦点を当てているのかなと思うのですが、その三人が時間を共にして作り出す空気感や雰囲気を見ているとそのような壁であったり、偏見を作り出しているのはいわゆる「普通な人」と呼ばれる大多数なのかなと思います。(この場合「普通の人」とは、障害がなく、職を持ち、自分一人でまたは家族とそれ相応の生活ができる人など。)
それを映画の中で感じる典型的な例はその三人が過ごしている時の明るい空気に反し、吃音の元教員の家族は旦那だけでなく幼い子供さえも全くその三人の輪の中に加わるそぶりがない、どころかその家族を用いることでその壁を明確に表現しているように感じました。

それ以外にも彼ら三人が関わる人達との関係はほとんどの場合でうまくいかないことがわかります。
そのことに監督自身が特別な意味を持ち合わせていなかったとしても、その三人とその他普通の人たちとの見えない壁は実際の社会に存在しているそれと同じものではないかと感じました。
それの生き過ぎた末に起こることが差別であり、立場の弱い者に対する支援の薄さだったりに繋がっているのではないかと考えることもできるでしょう。


この映画の中でもう一つ印象に残ったのが新しくできた法律。

映画の中で「S-14法案」と呼ばれているものですが、これがこの映画のキーポイントかなと。
個人的に感じたまま一言で表すと「臭いものには蓋をする」という言葉ですね。

映画の一番初めにこの法案の説明があるのですが、そのおかげでこちらはいつれにより与えられた権利を主人公の母親が使用するのだろうと考えながら物語を眺めるわけです。

で、それを含め思ったことが一つ。技術の発達によって私たちの生活は相当豊かなものになったのだろうと思います。実際私はそんなに長く生きているわけでもないので比較できないですが。
多くの人が語るところ便利な世の中になったと、良い世の中になったと。多分間違い無いんでしょうがそれ自体が人々の幸福に直接繋がっているのかは結構あやふやな部分なのではないかなと思います。
この映画で出てくる国や都市は架空のものという設定ですがほとんど今私たちが生きている世の中と変わりないように感じます。
その中で出てきたのが上で触れた新法案であり、それはわかりやすく社会の分断を表しているのではないかと私は感じたのです。

技術が発達し、多くの人々が暮らしやすくなった結果起こったのが社会の分断。
「臭いものには蓋をする」。社会に適応し、貢献できるものにとっては素晴らしく、それができないものは早いうちから隔離してしまえと。
そのような人達をフォローするためにではなく隔離するために資源を使おうと。
ここまで大っぴらではなくとも実際の世界でそのようなことが起こっているのではないか、そのような考え方が前提としてあるのではないかと思うことが多々あります。

どこにどのような方法で資源を提供するのかを決めることができるのは常に力のある、簡単に恩恵を受け取ることができる人達ではないでしょうか。
そのような人達が本当に資源が必要な、助けが必要な人達に手を差し伸べることができると思っているのだろうかと常々考えているのですが、そもそもそんなことを考えたって意味がないのかもしれないなとも思ったり。


私は今椅子に座ってこれを書いているわけですが、そのような人間がいくらのことができるのかといつも考えているんです。
捉え方は違うのかもしれないのですけれど、頭の中から「机上の空論」という言葉が離れないわけです。

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