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学部・院で異端児してたらこうなった 〜消された理解不可能性〜

この数ヶ月間、私は同じ研究室の学生・院生の人たちとの共生をもはや諦めていた。

教室や研究室や職場に行くのが怖いと思ったことはあるか? ある人は心の中で手を挙げてほしい。

私は行くのが怖くなかったことはない。大学院に進学する前から、大学院に行くのが怖く、程度に差はあれど今もそれは同じである。

なぜなら私は能力が低いから。他の大学出身の余所者だから。この社会で劣っているとされがちな女性という属性を持つ(とみなされる)から。そしてそれ以外にも排除されやすい属性を持つからである。

ここからは、第一に、大学院でこれまで私が安心して過ごせなかった精神的・環境的要因について、第二に、学部・大学院を通してマイノリティ属性をないことにされた経験と今後の展望についてだらだらと説明する。このように自分の考えを書き出して簡易的にまとめてみることで(まとまりは悪いが)、何か次に繋がらないかと期待してなくもない。

1 ①私は安心したい

大学院での話。私は安心して研究室や教室に存在したかったが、長らくそれが叶わなかった。

余所者・劣等生として

院では、まず「早く馴染め」というプレッシャーを受け、ついで「優秀な研究者になれ」というプレッシャーを受けた。私はすぐに、それらの期待に応えられるわけがないと思って自分を責めた。

はなから無視して好き勝手やればよかったのだが、一般に余所者というのは勝手がわからず不安であり、異分野出身者は自己評価が低くなるものだ。ゆえにネガティブな感情は回避できなかった。

おかげで「自分はこの研究室に不適格だ」と最近まで思い込んでいた。指導教員を親に見立てた家父長制的な師弟関係(幻想)に囚われてしまっていたのだと、今になってわかる。

女性として

また、マジョリティ属性であるシス男性による「男子校文化を大事にしていこう」とか「この場は女性ばかりで怖い」といった発言に直面した。レイプ事件について会話しながら、同じ部屋にいる私をチラチラ見てくる人もいた(堂々と話せばいいのに)。

私は、女性であること(具体的には cis she/her)以外にもマイノリティ属性を持っていたので(後述)、そのような言動を受けて「私が研究室に行くのに毎回どれほどの勇気が必要だと思っているのか?自分はここでは受け入れてもらえない、もう行きたくない」と不安と不満を募らせ、何度も絶望してきた。

「研究をしに来るのだから人間関係について考えるべきではない」と言いたくなる人もいるかもしれないが、人間とは何か?という問いに取り組む人文系において、また長期的に関わらざるを得ない研究室において、私にそれは無理であった。

1 ②みんな安心したくて当然

しかし最近、上記ように他者を排除するような言動をする人々の無意識下には、私と同じような恐怖・不安があるのではないかと思いついた。本人たちは認めたくないかもしれないが。

その恐怖・不安は、言い換えれば「安心して過ごしたい」というニーズである。

誰もが持っていて当然のニーズである。私は「このニーズを他者を排除することで満たした気になるのはやめませんか」と呼びかけたい、呼びかけてもどうせ無駄なのだが。少なくとも私は「男子校文化を守ることで自分の居場所を作りたい」と感じてる人には、そんなことしなくても安心して過ごせることに気づいてほしいと思っており、まだ共生の希望を捨てることができない、それも無駄なのだろうが…。

あなたが不快感を味わう理由

この話をここまで読んであなたは不快になりはしなかったか? 実は今回の問題提起は、これを読んで不快になるような人のためのものでもある。なぜ不快になるのか、自分自身のルサンチマンやこれまで見聞きしたことをもとに考えてみた。

例えば、あなたが今「こいつを黙らせたい」と思うのは「ぼく・わたし・おれも傷ついてるのに、あいつだけずるい」と悲鳴を上げていることと同じである。あなたが苦しみを我慢し、傷ついていることの表明でしかない。

例えば、「そんな悩みは珍しくない」と問題を矮小化したくなるのは、あるいは、私の発言を黙殺したくなるのは、自らの傷つきを直視できないからである。これも「ずるい」という嫉妬の感情であろう。

結局「ぼく・わたし・おれは不安や苦労を我慢しているのに、こいつはそれを自由に表明している、けしからん」ということで、つまり羨ましいんじゃないだろうか。

しかし、そのような意見を持つことは、構成員が安心できる空間をつくることの放棄である。あなたは自らの不安や苦悩の表明を我慢する必要などないし、ましてや他者に我慢を強要することはできない。まあ、弱みを見せたら自分の価値がなくなると思い込んでいる人には、この話すらも通じないのだろうが…。

解決策はわからないが、私は人間自体に価値はないと考えることで乗り切っている。瞬間的に価値があるように思えることもあるが、それは主観か共同幻想にすぎず、外在の絶対的な尺度は本来は存在しないという発想である。

2 ①マイノリティが消される

また私は、母子家庭育ちで、親が高卒かつ珍しい職種のフリーランスであり、経済的な困窮も経験した(例えば親の預金が数百円しかないとか、一人暮らし中にやむなく消費者金融から借金など)ので、学部・院・学会の周辺では間違いなく少数派である(であった)。

そのような背景を持っていて直面する問題は、「互いに分かり合えない」ということすら分かり合えないことだ。

貧しさについての想像力が貧困

例えば「わたし・ぼくも庶民だよ」といった発言によく直面した(「も」ってなんだ)。反対に「金がないのはお前が浪費してるからだ」という無根拠な決めつけを繰り返し受けた。JASSOの奨学金を借り入れたときに、私が関係者に「おかげさまで今までの学生生活で一番安定した暮らしができている」と述べたら怪訝な顔をされたこともあった。

性別二元論・異性愛中心主義

また、シスジェンダー・ヘテロセクシャルの当然視にも直面した。つまり、性別には男女の二つしか存在ないことが前提で、望ましいのは、生まれつき割り当てられた身体の性別と自認する性別が一致していること、その性別「らしさ」に沿った言動をすること、異性愛者であることだ、という人間観の押し付けである。
具体的には「あなたは彼氏や好きな人はいるのか」とか「誰々は男性らしくない」といった趣旨の発言があった。

  • 彼氏いるの?→ 自分のSOGIについて説明をしてからどうぞ。

  • 男・女「らしく」ない→ ジャッジしてくれなんて誰も頼んでないだろ。

と自然に返せたらよかったよな…。

2 ②マイノリティが悪目立ちする

「あなたは私と同じである」という一方的な決めつけは、受け手に「私が私でいることが許されない」と感じさせ、想定されない属性を排除することになる。特に学部進学以降これを度々経験してきた。

私は自己紹介をし続けた

私は、学部や研究室というのは様々なバックグラウンドを持っている人間が「〇〇学をやりたい」という一点の共通の目的で集まっている場だと思っていた。しかし実際には、皆が同じような属性・経験・発想を持つという共同幻想が優位な場であることがわかった。みんな同じだから自分のことを説明しなくてもわかってもらえるのが当然、という態度が普通であることが多々あった。

ゆえに私は「それは幻想ですよ、だってあなたと私はこんなに違うでしょ」と伝えたくて、自分がどのような人間なのか割と発信してきた。変な髪型・髪色にしたり、変な服を着たり、変な発言をしたりした。普通にあるいは肯定的に受け入れられることも多かったが、面白がられたり迷惑がられることもあったと思う。しかし、余所者と内部者の違いを知ってほしいと言葉ではたらきかけると、勇気を出して言ってみても、珍しがられるか、無視・拒絶・曲解されて伝わらないことの方が多かった。

そう、私に跳ね返ってきたのは「 "お前は" 異質だ」というメッセージばかりだったのだ。本当は「皆がそれぞれ異質だ」という最低限の共通理解に到達したかったのに。私の発信方法は間違っていたのか?

お前が誰なのか教えてくれ

おそらく、マジョリティである=大多数と同質であることは、自分のことを説明しなくていいから楽で、怖くない "気がする" のだろう。しかしそれは「説明しなくてもわたし・ぼく・おれのことを理解しろ」とマジョリティ以外の者=マイノリティに忖度を強要する甘えの姿勢である。

ならば私が本当に発信すべきだったのは、互いが互いにとって了解不能な他者なのだから、みんなもっと自分のことを説明すべきだ、自分語りをサボるな、黙ってても理解してもらえると甘えるな、お前のニーズを言ってみろ、というメッセージだったかもしれない。

私は散々自己紹介した。これからは他者に「あなたは誰なのか」としつこく問うてみるのもありだろう。

もう一度だけやってみようか

ここまで、理解不可能性の理解を目指していると書いてきたが、相互に了解不能であることが露見することで、急に皆が仲悪くなるなんてことはないので心配することはない。むしろ逆で、互いを知ろうとする姿勢や自分を省みる姿勢は、良好な関係の構築につながるはずである…ってのは嘘じゃないけど理想・綺麗事で、相手が歩み寄ってくれなかったら自分が一方的に苦しい思いをするのが現実である。

そもそも分かり合えないことを知るだけで苦しい。しかし無理に分かり合えたフリをするよりはマシじゃないか…自分にも相手にも嘘がないから。それによって "分かり合えないこと" を受け入れられるかどうかのハードルが下がっていき、分かり合えなくても平気で、尊重し合って共存できたらいいよね…。

例えば、私は最も仲の良い部類の人間と関わるときでさえ、これ以上は分かり合えないという限界に度々直面し傷ついている。なぜなら、そのとき「もっと歩み寄ってくれよ」「私を理解してほしい」という自分のニーズが満たされないからだ。しかしそれこそが健全なコミュニケーションだと信じているから、伝えたいことがあるときは相手にぶつかっていく。
(ちょうど昨日もそういうことがあって、今も心が鮮血をダラダラと流し続けている。自分の負担にならない範囲でやろうな…それが見極められないから今こうなってるわけだけど。)

ただ、行くだけでも勇気のいる研究室や教室でそのような捨て身の(?)コミュニケーションを繰り返すのは、非常に消耗することである。特に上記のホモソーシャル擁護発言をきっかけに、私は一旦コミュニケーション自体を諦めた。もはや、自分のような異質な存在が教室に行くこと・教室に存在すること自体がマジョリティ文化への最後の抵抗運動だ、という思いだった。

しかし前述の通り、長らく "抑圧してくるマジョリティ" として私が恐れ呆れていた対象が、実は自分と心情の面で共通する部分があるのかもしれないと思い始めた。私はこれから理解不可能性についての理解を求めて、性懲りも無くまたあがき始めるのだろうか。

これは、私の年来の課題の一つである "差別したくてしてる人に「差別するな」と言っても意味がない問題" へのヒントにもなるかもしれない。

<後記>

  • 思えば、マウントを取ってくる人=私を劣っていることにしたい人が、学部・院時代を通じて学内外にいて、皆こんなに自信がないんだと驚いたものであった。「優れていなければ価値がない」という価値観の中で生きてきたことや、私みたいな無能にさえマウント取らないと気が済まないほどの不安を抱えているらしいことを、不憫に思ったものである。私も決して例外ではない。

  • マジョリティ・マイノリティ(・多様性)という言葉には本来 "何についての" という説明が必要であるが、本文では詳細を省いた箇所も多い。出身地・出自・国籍・年齢層・学歴・経済状況・障害・疾患・外見的特徴・性自認・性的指向など、線引きの要素は多岐にわたる。
    当然私がマジョリティに属することも多々あるし、子供時代にはマイノリティを故意に・不当に抑圧して傷つけた経験もある。それについて私は改心し続けなければならないし、それを抜きにしても、マイノリティに対して果たすべき責任を永遠に負っている。

  • 学部・院・学会の中にはある程度の異文化理解の精神を持っている人もいることをことわっておく。

  • それにしても書けば書くほど自分の考えが無意味・無価値のオンパレードな感じがしてくるのはなぜなのか。

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