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記憶と記録②2023ver.「気づき」

記憶と記録①2022ver.「出会い」 のつづきです✨
長いです。長いですが、覚えていることをありのままに書いたから(笑)。治療レポ。

1月26日が手術の日だった。前日の1月25日に入院した。
詩央里ちゃんがこの日、25日は北参道、26日には八王子papaBeatでLIVEの日だった。行きたかったなぁ。「出会い 2022ver.」でも書いたけれど、この病気になってからの私にとって重要なカナメの日には、なぜか全部 #詩央里 ちゃんのLIVEがあった。言うとちょっと引かれそうで言えなかったけれど。この2日はもちろんオンラインでも見れないから我慢した。

手術は左胸乳腺の全摘出+同時一次再建という2種類の手術。センチネルリンパ節生検でもリンパ節転移は無しと判断され、リンパ郭清手術はしなくて済んだから少しだけ手術時間は短くて済んだ。
10時に麻酔開始で目覚めたのは12時半くらい。意外と短かった。
術後目覚めると主治医はまず「リンパは切らずにすみましたよ。癌も全部取りましたからね」って笑顔で私に言った。
再建ではエキスパンダーと呼ばれる生食の袋的なものが皮下乳腺を摘出された後に入れられていて、つまり下着や服を着ていれば自分でも外見的には全く手術したことがわからない。傷も思った以上に綺麗だった。一本だけまっすぐに線がついていた。縫われておらずテープで止められていた。
「二次再建手術でも同じところを切るから、これ以上傷はできませんよ」、って乳腺外科と形成外科の2人の主治医は言ってくれた。

術後1週間過ぎたころには病院からすでに仕事(リモート会議)には参加していた。約10日の入院期間を経て退院、手術して1か月までは腕を上げるなとか重いものを持つなとか言われていたからリモートワークが一般化されたことは本当にありがたかった。会社同僚には2人の取締役だけしか病気のことは告げていなかった。未だに私の部署・チームメンバー含めて彼らは私の病気のことも治療のことも知らないと思う。変わらない日常が送れているのは彼ら2人の手助けのおかげ。本当に感謝している。
意外にも術後半月でほぼ外出はできていたし、1か月後には友人と食事に行ったりできるようになっていた。思った以上に生活に支障はなかった。
だから3月までお預けと思っていたLIVEにも2月中に参加できた。2月26日、手術からちょうど1か月。詩央里ちゃんのLIVEを初めて生で見ることができた。
そして同様に手術後1か月で病理結果が出た。
ようやく、これまで正体不明だった私を脅かす何かの正体が明らかになるときが来た。

■正体
3月頭、病理結果が告げられる日。
前回の術後診察の際には「外科的な処置ではしっかり取り切ってます。今後の治療も、あんまりハードなものにはならずに済むと思いますよ」と笑って言っていた主治医の顔は少しだけ曇って見えた。
「切ったやつ見る?」
って先生が言った(もちろん写真)。「見たくないです」って答えた。
腫瘍サイズは2cmだった。浸潤域は一番遠いところで7cm。先生が実際に執刀して見て思っていたよりもサイズが大きかったと言った。私自身も通常2cm超の時点でステージⅠではないという認識だけはあった。
「リンパ節転移がないので、ⅠとⅡの間くらい。Ⅱ行かないくらい。ステージだとⅡaぐらい」
と言われ、説明の用紙に「ステージⅡa」と書かれた。続けて「ホルモン受容型が陽性。HERは陰性」と先生は説明しながらやはり用紙に「ホルモン(+)」と書いた。乳癌患者全体の8割を占める一般的なタイプだった。

「10年後の生存率は87%くらいと言われています。もうちょっとあるかな。ホルモン治療が効きます。それで90%以上に上げられると思います。ホルモン治療だけでも大丈夫だとは思うんだけど、思ってたより浸潤域が広かったから、万が一微細癌がどこかに飛んでいる可能性を踏まえて抗がん剤治療をやってそれを潰しておくと安心です。それをやると4~6%くらい更に上乗せができる。もちろん100%にはならないけど、僕はなるべく近づけたい」
と先生は言った。
相対する相手は見えた。治療法もわかった。あとはどうするか。決めるのはまた私。
「それと、抗がん剤やホルモン治療を行うとその期間生理が止まるけど、大丈夫?」と聞かれ、説明を受けた。
つまり生殖機能が薬の攻撃を受ける。もともと、もう年齢的にも自然妊娠とかは確率的にわりと難しいだろうなと思っていたし(このちょっと前に同級生が子供産んだけどw)、そもそもが結婚もしてないから子供を作る予定も必然もなかったので、病気や治療云々でなく漠然とそこはもう人生上諦めてたというか、もういいかなとずっと思っていたんだけど(ま、子供欲しかったらもっと若い時にさっさと結婚してたよね、誰かとって話。しかも若くたって子供できるかわかんないし)、いざ病気治療の都合で改めて自分の意思ではなく必然としてそう言われるとショックではあった。
あと10歳若ければ、もし数年かかる治療を終えた後でも妊娠できる可能性はあるから、卵子凍結とか妊孕性検査とかしてたのかな?と思いながら、少し考えさせてください、って言った。

ここで私がいま言いたいのは、20代~30代中盤までの時に、結婚はしなくていいかなとか、したいと思う相手が現れた時に考えればいいや、子供はどっちでもいいかなと思っていたとしても(ちなみに私は思ってた)、、それでも卵子凍結は検討してみて欲しいということ。
可能性は一時の考え方で狭めるものじゃない。ここは、声を大にして言いたい。今は病気になっても年齢が高くても子供を産むための選択肢は山ほどある。卵子凍結も、費用は昔より一般化されて負担も少なくなっている。補助も出る。だからこそ、やれることはやっておいた方が、きっといいと思う。私ももし10年前だったらやったと思う。

■抗がん剤やるの?
仕事上、病気のことを一部の同僚に告げるのは仕方ないとして、それ以外では家族と、あと1人にだけ病気と手術のことは伝えていた。でも、この時点では未だ友人たちには何一つ伝えられずにいた。
3月になって初めて長年の友人たち何人かに病気・手術したことを報告、抗がん剤治療のことを相談した。友人たちは、どうしてすぐに話してくれなかったのと泣いた子もいた、静かに受け止めてくれる子もいた。そして全員が「やったほうがいい。やってほしい。」って私に言った。母親も弟妹もやるべきだ、って言った。その時私の一番大切だった人も「やったほうがいいよ、1年なんてすぐなんだから」って言った。
3月いっぱい考えて心を決めて4月から抗がん剤を開始した。
これは再発を防止するための投薬。だから実際に効果が出ているかどうかは正直わからない。外科手術前に行う人や手術で取り切れなかった人が行う場合の癌を小さくするために使用する抗がん剤と使う薬剤は同じ。
だから薬は同じように強い。ネットで「癌が小さくなってやっと手術できる」って報告しているのをたくさん見た。私の場合はそういう効果が実感としては、ない。あるかどうかわからない目に見えない画像に映らない微細な癌細胞を攻撃してくれているはずの薬。
もちろん正常な細胞をも同じように攻撃する。副作用はすぐに出た。目に見えて変化していく自分の身体に、思った以上に心がダメージを受けた。

■抗がん剤の副作用
副作用の説明は十分に受けていた。まず髪は例外なく抜けますと言われた。眉毛や睫毛も抜けるでしょうと言われた。あとは味覚障害、消化器障害、体重の減少、発熱、感染症にかかりやすくなること、口腔内の出血・口内炎、皮膚の色素沈着、しびれ、爪の剥離、全身の痛み、、、などなど。
でもこれ全部が出るわけではないし、程度も人によって出かたが違うから結局やってみないとわからないね、って言われていたのだけど、髪が全部抜けた時は本当に落ち込んだ。
私は自分の髪が好きだった。あまり癖がなくて、そんなに慎重にケアをしなくても、さらさらつやつやしてくれてた。その髪がなくなった。鏡を見て涙が出た。もちろん命には代えられないのに、こんな想いまでして抗がん剤やる意味あったんだっけ?とまで思った。
そう、ちょうどGWだった。詩央里ちゃんのエレフェスがあったころ。
髪が、抜けていた。毎晩、お風呂に入ると手にゴソッと髪が抜ける。実はあらかじめショートカットに髪を切っていたのだけど、それでも排水溝には数日間大量の髪が溜まった。それを1人毎晩ゴミ箱に捨てた。
ビニール袋だとゴミを出す時に他人にびっくりされると思った。紙袋に大量の髪を詰め込んで捨てた。1週間ほどで全部抜けた。

今の世の中には、自然に見えるかなり高品質の医療用ウィッグが売られている。そのウィッグを付けてフェスやLIVEにはなるべく参加するようにした。会社でもプライベートでもウィッグは全然ばれなかった。
むしろ会社のみんなには「なんか髪型変わった。かわいい」ってよく言われた。普段変化に気づかない男性陣でさえ「髪切った?素敵じゃん!」「なんかすごいいいよ!」って褒めてくれた。ウィッグってわかってたら敢えて言わないでしょ、って思ったから内心複雑だったけど、ちょっと前向きになれた。だから誰も気にしない、知らない中で普段通りの日常。とても気分転換になった。今まで通りの日々を実感できた。
一方で体重は1か月で3kgは減ってしまっていた。
自身の外見が日々変わっていくことに敏感であろうと思った。それまでもSNSで顔をたまに出していた私だけれど、これからは敢えてもっと出していこうと思った。なぜなら、それをしないとどんどん本来の自分が一枚一枚服を脱ぐように失われていくと思ったから。私自身が自分の変化に一番敏感でなければならない。SNSで自分の写真を上げることで、今まで通りの自分をどうにか頑張って保とうと思った。
一方で体調がいい時はなるべくジムやゴルフの練習に行った。普段通り今まで通りに楽しんで日々を過ごしているというアピールをする必要があったのは、自分の心の安定のためでもあった。仕事もそれまで通りに出勤もしたしなるべく出張にも行った。
それでもまったく動けない日もあった。具合が悪くて身動きができない。
せっかく食べても全部戻してしまう日もあった。貧血で動けない日もあった。薬を飲んで治るというものでもないから、ただじっと時間が過ぎるのをベッドの上で横になって耐えるような日もあった。
何とか食べようと食べれるものを考えて、ネットでレシピを検索した。いざ作って食べようと思うと食欲がわかない。食べても、味がしない。果物と野菜しか食べられない日が続いていた。味が複雑なものは全て不味い。なぜか、ゴマドレッシングとお酢だけはおいしく感じた。

■心の変化
他人に頼るのも、弱みを見せるのもいやだった。
そう自分で決めていたから。一人でやりとげようって頑なに思っていた。結局自分のことだから。誰かに頼ってしまったら乗り越えられないと思った。一度誰かを頼ってしまったら、きっと何かしてほしいって期待してしまう。少し違う反応が返ってきただけで落ち込んでしまいそうな自分がいた。人は期待通りには動かない。私だってそう。なのに勝手に期待してがっかりするだろう自分が嫌だった。そういう風に誰かに依存して過ごすのは私らしくないと思った。だから、誰も頼らないと決めた。それに他人の負担になるのは嫌だった。たとえそれが家族でも。
友人たちは沈黙を守ってくれた。きっと「大丈夫?」とか「つらい?」「何食べれる?」「食べてる?」とか聞きたかったんだと思う。たまに「何か買うものある?届けようか?」とは言ってくれた。「大丈夫」って送った。そこからは彼らも動かないでいてくれた。全員のあらゆるSNSの発信・ポストがぴたり、と止まった。私が「体調いいから今週か来週◯◯付き合ってよ」っていうと、ぽぽぽぽん、とグループLINEはにぎわった。「いいよ!行こう!予定空ける!」って明るく付き合ってくれた。
私の性格をよくわかってくれている。心配すればするほど私が負担に思うってこと。彼らだけに伝えて本当に良かったって思った。

「出会い」で書いた、家族でも友人でもない大切な人がいた。その人には一番最初に伝えた。だけど、今後どう関わっていいのかがわからなくなった。負担にはなりたくなかった。
でもすでに少し崩壊していた私の心の弱さが、たぶんその人を傷つけてしまっていた。結局弱かった自分の不甲斐なさが悔しかった。
充分に大変な立場と背景を持ってしっかり頑張っている人だったから、病気がわかる前も、一緒にいる時間は彼の自由に好きなことをして過ごしてほしいと思っていたし、忙しい中許される時間の中で楽しく笑って過ごせればいい、と思ってた。私のわがままやお願いごとも、忙しい中で本当にたくさん聞いてもらった。私は自分本位だから。だから、病気のことも考えも結局ちゃんと言えなかったのに、勝手に彼の立場を考えたら先々一緒にいるべきでないと思ったし、それでも彼には幸せになってほしいと思っていたし、なるべく穏やかにそれを見守れればと思っていた。何も話せてなかったのに。
でもある日その人は「怖い」と言った。
私は一緒にいて本当に楽しかったし心の平穏をもらった。いっぱいの感謝をしていたつもりだった。なのに、私はそれさえできなくなっているんだということに気づいて、確かに自分が怖いと思った。
頭でこうしようと思っていることと行動がちぐはぐになっている。
このままの私ではしばらく会ってはいけないと思った。これ以上、私のことで嫌な思いをしてほしくなかった。いろいろ怒りすぎたって言われて、本当に動揺した。彼は何かをずっと我慢してたんだって気づいた。言われるまでその我慢の理由もなぜ怒るに至ってしまったのかも気づかなかった。
私は自分が辛かった時にいっぱい助けてもらったし、だから乗り越えられた日もあったし強くもなれた。何より、一緒にいれたことで私が知らなかったいろんな私を知った。嫌なところも、良いところも。だから、私にとって彼は大切な宝物みたいな存在に少しづつなっていた。
そんな風に思っていた人をどうして怒らせてしまったのか。私は何をしてるんだろうと自分に腹が立った。思考と行動が伴っていない。
ちゃんと会ってしっかり自分の考えと真実を伝えなければって思った。つい最近まで、そう思ってた。
でも、もうきっと違う。もう会わないと言われた気がした。たぶんもう、どんな言葉も話も求めてない。そう思ったら途端にどうしたらよいかわからなくなって、もう会うのも話すのも関わるのも怖くなってしまった。大好きで大切な人なのはたぶんきっと、もうずっと変わらない。けれど、怖い。
やっぱり今は直接伝える術がないから、でも気持ちを忘れないようにここに書いておく。いつか気づいて、伝わってくれるといいなと思う。たくさんのありがとうとともに。

■自分を見直す
抗がん剤は、効果はわからない。でも確実に心身を疲弊させていく。
それだけは確かだから、もし自分の周りに抗がん剤治療が必要な人がいて、これからその人を支えなきゃっていう人がいたら、このnote記事を読んでほしいなぁって思う。
治療方法が見えて治療を始めるときよりも、治療が進めば進むほどに自分を失っていく辛さで精神が変わっていく。自分と世の中を関わらせることが怖くなる。
変化を悟られることが怖い。自分の価値がわからなくなって、自分で決めたことだから結局は自分で乗り越えないといけないのに、なぜか他人に何かを期待してしまう。そして不安に苛まれる。
きっと病気や抗がん剤をやっている自分にどこかで甘えていた。こんなに辛いんだから優しくして欲しいとか、もっと気遣ってほしいとか、誰かにわかってほしいっていう期待を多分どこかで持ってしまっていた。
普段の自分だったら、そんなふうに考えただろうか?可哀想とか思われたくないし普段通りでいたい、ほっといてほしいって思ってたのに、なんて自分勝手なんだって思った。日常をなるべく維持して自身を保とうとした私でさえ、自律神経が大きく乱れてしまって、苦しんだ。

そして4月から始まった抗がん剤は9月末でなんとか全行程を終えられた。途中帯状疱疹がでたり、白血球が1000まで落ちてしまって投薬を続けられなくなるかもという事態に陥ったけど、なんとか計8回完走できた。不思議なことだけど、完走できたとたん、ぐっと気持ちが上向きに動いた。
自分を取り戻せた、という感じがした。

新潟で詩央里ちゃんと話した。
詩央里ちゃんには病気のことを伝えてあった。
LIVE後にお話しできるタイミングで「治療が終わったの」と伝えた。
「まゆゆんはすごいね。私ネットで調べたの。結構調べたの。どんな治療なのか。すごかった。それを周りに言わずに1人でよく耐えれたね。ほんと頑張った」みたいに言ってくれた。
ネットで調べたと言ってくれた彼女は、言葉通りよく知ってくれていた。
この人も、本当になんて人なんだろうと思った。忙しいのに、1ぞうの私にここまで心も時間も砕いてくれる。友人たちと同じように気持ちを受け止めて行動してくれる。そして欲しい言葉を欲しいタイミングで言ってくれる人。感謝しかない。

辛かった治療を経て気づいたこと。
そして大切な人たちが気づかせてくれたこと。
今までの私は、人見知りだからとか、相手が嫌がるんじゃないかとか、そういうことを言い訳にして向き合ってこなかったことが幾つかある。
しっかり向き合えたものとは強い信頼関係がこの経験で作れた気がしてる。
人生は1度しかないこと、健康で過ごせることがどんなに大切かも痛感した。だからもっと自分のしたいことやりたいことを気持ちのままにやっていきたいし、それとだけ向き合っていきたいと思った。

その為に決別するものもある。
人見知りだからと言い訳してた自分、他人と深く関わることを恐れていた自分、苦手だなって決めつけていたもの、好きでもないのに誰かのために構築し続けた人間関係、上っ面の言葉だけを並べる人、嫌だって思いながら我慢し続けていた自分、そういう自分の気持ちに正直でなかったものとは全て決別しようと思った。もっと自分の軸で自分の思うままに生きていきたい。

1月にまた二次再建の手術と薬を飲む治療は残っているけれど、もう自分らしく頑張っていけると思うし、もう隠す必要もない。
みんな、ありがとう。
面と向かって改めて一人ひとりには恥ずかしくて言えないから、こそっとここに書いて、気づいた人、または読みたいと思ってくれた人にだけ伝わればいいや。

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