何とか武蔵を顕彰したい、その強い思いが武蔵伝説を創り上げました
宮本武蔵について調べていると、これほど実像と伝説の間にギャップのある人はいないであろうことに気づかされました。
そのきっかけとなるのが武蔵死後九年目(1654)に建てられた石碑です。
その石碑は関門海峡を見下ろす風光明媚な小高い山に建てられ、マスコミなど何もない江戸初期に、大勢の人々が寺社詣での名目で立ち寄り、碑文を目にします。その結果、武蔵の名は一躍全国区の知名度になって行き、碑文も様々に引用・解釈されることになります。
碑文は建立者の武蔵養子・宮本伊織と思われがちですが、小倉藩主・小笠原忠真の手によるものです。
その根拠は碑文中の「六十余度、敗けなし」の部分です。忠真の義祖父・本多忠勝の「57回、かすり傷さえなし」を意識したものです。忠真家臣の伊織が上司の親族より強いとは絶対に書けません。
忠真は武蔵に家臣というより肉親に近い感情を抱いていたと考えられ、更に五十代後半の武蔵を熊本に赴かせ、その事が武蔵の寿命を縮めたのではとの負い目もあります。
何とか武蔵を顕彰したいと考えます。
ただ、忠真は武蔵が強いことは目の当たりにしていますが、悲しいかな1580年代生れの武蔵は秀吉・家康時代の人で戦闘経験がほとんどありません。
茶人でもある忠真、無ければ作ってしまえと大胆な作戦に出ます。
まず、37年間・六大名の実質的な兵法指南役として幕府の同役・柳生家と対峙し続けていたことを、足利将軍の吉岡家の名を借りて表現します。
次に、巌流島ですが柳生家から細川藩に送り込まれた雲林院弥四郎という人(出典:福田正秀さん「宮本武蔵研究論文集」)がモデルで、武蔵の熊本入りの原因にもなりました。弥四郎の二男が「岩尾」を名乗り、ここから「(巌)岩流」が生まれます。
ある意味、虚像だらけの石碑がその後の著作の基点になるのですから結果は考えるまでもありませんが、今まで判明している実像の武蔵は37年間、実質的な兵法指南役で相当な腕前であったと想像され、多くの若者に就職の世話をし、多くの芸術作品を遺し、伝説に勝るとも劣らない人物です。
武蔵没後四百年近くになりますが未だに実像・虚像が混沌とし、このままでは千年・二千年経とうが霧の中です。多く残る情報を少しでも仕分けし、実像を知って貰った上で、伝説も楽しんで頂けるようにして行きたいと考えています。