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いい夫婦の日に寄せて〜子ども時代に、私は父の(母の)パートナーの代理をしていなかったか?を問うてみる。


今日はいい夫婦の日ということもあり、昨日に引き続き、パートナーシップにおける課題が子どもに影響を及ぼしている、という話題に触れたいと思います。

昨日の記事はこちら。

パートナーシップが良くないとき、無意識にパートナーの代理になっているのが、家族の序列として、その下に控えている子どもです。


ファミリーコンステレーションにおけるワークをしていくと、そのことに嫌でも気づかされます。

例えば、私は、ファミリーコンステレーションのなかで、父の、妻のポジションに無意識に入っていた、と分かりました。


思えば私は子どもの頃から甲斐甲斐しく、父のお世話をしいました。

父の夕飯の晩餐のお酒を注ぎ、ご飯をよそい、父の仕事の愚痴を延々と聞いていました。

父の身体の心配をし、父の下着が古いのに気づけば、自ら買ってきたりもしていました。


もちろん母も一緒に住んでいます。

外側から見れば、仲の良い夫婦にさえ見えたと思います。

ですが、母は父と向き合っていない、というか、父も人の話し、母の話しを全く聞かないので、母が父を信用して大事な話しをしなくなるのには父側にも責任があり、そこに夫婦として真摯に向き合った姿はありません。


夫婦が物理的には一緒にいても、精神的に離れている、信用していない、そのような関係にあるとき、無意識に子どもはその代理を担ってしまっていることがままあります。


何とか埋め合わせよう、補完しようとして無意識に子どもは立ち回ります。

そのような父との関係を私は無意識に長いこと続けていて、私は父の身勝手さを嫌悪しつつも、父の身体や心のケアにいつも気を配っていました。

それは、本来母という正妻がいるのだから出過ぎた行動であり、家族の序列を崩し、愛が真っ直ぐに流れていかない状態です。

にも関わらず、それが当たり前、家族の中で私がそのようにうまく機能してしまうのは、そもそも機能不全家族であり、母と父が夫婦として機能していないので、私が妻の座を補完して家族がバランスしてしまうわけです。

このように、母の愚痴をよく聞く息子が、父という本当の夫がいるにも関わらず、夫の役割を担ってしまっていたりします。

どちらも夫婦がきちんと向き合わず、機能していないからこそ、無意識に子どもを自分のパートナーにしてしまい、そこで自分を受け止め理解してくれている存在がいることに親は安堵してしまい、ますますパートナーではなく子どもを頼ります。

が、親はそれでいいですが、その後、その子どもは自分が健全な家庭を作ろうとするとうまくいかない、または実家を出れない、結婚できない、などさまざまな問題が生じてきます。


私がそうですが、なかなか実家を離れられませんでした。


離婚後実家に戻る、一人暮らしをしても、また実家に戻る、など無意識を行動に移していました。


なぜなら自分の人生に集中するより、両親の関係を補完しようという生き方が無意識に自分の生き方になってしまい、よくわからないけれど自分に集中できない、なぜだか生きることに葛藤が大きいという状態にいます。


母より、父より、幸せになってしまう自分が全く描けない、想像できない、

そこに強烈な罪悪感を感じる、

が、正しいかもしれません。

こんなふうに言語化できるようになったのは、再婚し、セラピーで自己探求をし続けて、毎日が幸せだ、と感じられるようになってはじめてなのかもしれません。

とにかく、自分が幸せになる、ということに強い抵抗があったのです。


嘆き愚痴る母、暴言、不満の多い父。


幸せな夫婦関係だ、と思えない両親の元に育った子どもは強弱の差はあっても、自分が幸せになる姿が描けない方は意外に多いのではないか?と感じます。

逆に言うと、子どもが不幸でいる間は、両親に精神的に属している、捧げてしまっている、という状態かもしれません。


あなたが幸せになっていい、という許可は、親を捨ててもいい、という許可と言えるかもしれません。


親に尽くしている姿は美しいので、一見全ていいことのように見えますが、自分がすでに幸せで親に尽くすのは善だと思いますが、自分が不幸せで親に尽くすのは偽善だと感じています。

ですから、まずはあなたが

親より幸せになっていい、
親を捨てても幸せになっていい、

と言えて初めて、本当に親も自分も幸せにできるのではないか、と感じています。

今日もお読みいただきありがとうございます。





原家族内での役割が脱げたとき、自分が立ち上って現れた。

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