(第18回)大和、坊ノ岬沖

沖縄で死闘を続ける日本軍と民間人の方々を、制空権、制海権を失った状態でどう支援するか。立案されたのは陸海軍の残存航空戦力を総動員した一機一艦の体当たり「特攻」でした。

海軍軍令部総長の及川古志郎は天皇陛下にこう上奏します。

「海軍航空の総力を挙げて特攻作戦を展開します」

陛下は、こう下問されたと伝えられています。

「飛行機だけか、海軍に船は残っていないのか」

どういう文脈での下問だったのかわかりませんが、僕は「艦艇による支援はできないのか」という意味合いだったのではないかと思います。
しかしながら、この奏上後に大和以下、水上部隊の特攻も決まりました。

戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、歴戦を生き抜いた駆逐艦8隻。
たったの10隻で、航空機の掩護はなく、片道の燃料を積んで沖縄へ突入するという悲壮なものでした。

当然、作戦会議は紛糾します。当たり前ですが艦隊司令長官の伊藤整一中将はじめ、各艦の指揮官が納得できる作戦ではないからです。

「航空機の援護が無い以上、途中で全滅する事は明らかである。もはやそれは作戦と言えるのか」

「日本国民の最後の財産である大和を、そのような無謀な作戦で失っても良いのか」

という意見が噴出します。
その席上で、この水上特攻を立案した中心人物の一人、参謀の神大佐は概ねこういうことを言いました。

『大和』が突入することに、意義があるのである。
日本人の象徴である大和が、柱島あたりに浮かんだまま米軍に生け捕りされるようなことがあれば、それはすなわち日本人の精神の死に繋がる。
ここは海軍の誇りにかけて沖縄へ突入すべきであり、可能性は低くとも沖縄の海岸に乗り上げて大和の巨砲を一発でも打ち込めば、沖縄で戦う同胞をどれだけ勇気づけるか」

しかし、これは武士道といいますか精神論ですので、伊藤中将は

「(大和乗員の)3000名以上の命を預かる身として、それには納得できない。どうかこの作戦の、軍令部における本心をお聞かせ願いたい」

と言い、たまりかねた三上参謀がこのように伝えたと記録されています。

「一億総特攻のさきがけとなっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」

この言葉に伊藤中将もついに「分りました」と頷き、大和以下たったの十隻は、死出の旅に出撃しました。

会敵前夜の大和艦内では汁粉が振る舞われ、将兵のみなさんは有賀艦長や副長も交えて無礼講、酒を飲んで歌う方、ハンモックにもぐって人知れず涙を流される方、激しく日本の将来を論じ合う方々、この作戦の是非について語る方々、様々でした。

そして甲板上の黒板には、誰が書いたか「死ニ方用意」と書かれていたそうです。

吉田満氏の著書にある戦闘前夜のエピソードとして、
この水上特攻で戦死する事が軍人としての誇りであるという海兵出身の士官の方々と、これは無駄死にであるとする大学出身の予備士官の方々との間で激しい言い争いが起きますが、臼淵大尉という方のこの一言で一同は納得し、決意を固めたといわれてます。

「進歩のない者は決して勝たない
負けて目覚める事が最上の道だ
日本は進歩という事を軽んじ過ぎた
私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずして救われるか 俺達はその先導になるのだ
日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」

(吉田満『戦艦大和ノ最期』より抜粋、原文カタカナです)

不幸にもこの水上特攻は敵の潜水艦により把握されており、翌朝、大和以下の水上特攻部隊に対し、ミッチャー中将率いる機動部隊から数百機の艦載機が襲いかかりました。

艦隊はハリネズミのように対空火器を装備していたのですが次々に襲い来る艦載機の攻撃に軽巡洋艦『矢矧』沈没、駆逐艦も次々と被害を受けていく中で大和は魚雷、爆弾あわせて二十発近くを体に受けながら対空砲火を打ち続け、遂に船体が真っ二つになって大爆発を起こし、九州坊ノ岬沖、北緯30度43分、東経128度04分の位置にその姿を沈めました。

大和の最後は、生還された方々によるいくつかの手記がありますが、爆弾と機銃弾の雨と降る血みどろの艦上で、覚悟を決めた方々がゆっくりと煙草を回し喫みしたり、おやつのビスケットを齧ったり、覚悟を決めた方々の悠々とした姿が描かれており、大和にて総員退去の命令が出て海に飛び込む際に何故か「ロッカーの羊羹食べておけば良かった」ということを思ったりなどなど、人によって様々ですがそれにはどんなフィクションも叶いません。

先にも引用しましたが、実際に大和の艦橋で戦闘に参加し、生還された吉田満氏の「戦艦大和ノ最後」は一度読んでみても良いかもしれません。
「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 今ナオ埋没スル三千の骸(ムクロ) 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」
のような文章ですので現代の僕らが読むには時間がかかりますが。

大和に座乗した伊藤長官は、大和沈没の直前に自分の権限で作戦中止を発令し、生き残りの駆逐艦に漂流者を救助して佐世保へ帰投せよ、と命令を出してから沈みゆく大和の長官室に入り、内側から鍵をかけました。

そしてこの死闘を生き抜いた駆逐艦の冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に生還したのです。

日本海軍において現場指揮官が独断で作戦中止を発令した(このときは伊藤長官にその権限がありました)のは、後にも先にもこの時だけなのですが、そのおかげで少なくない方々が海中から救助され、生還することが出来ました。

ちなみにこの水上特攻も生き抜いた駆逐艦「雪風」は、開戦時から稼働していたにも関わらず、終戦まで生き抜いた奇跡の駆逐艦であり、宇宙戦艦ヤマトに出てくるキレイな女性「雪」はこの雪風からきていると僕は信じています。

この水上特攻に、もし戦艦「榛名」が組み込まれていたら、照雄さんは戦死して僕は存在しなかったかもしれません。
しかしその頃の日本には、戦艦を二隻稼働させるだけの燃料も、もはや無かったのです。

明治以来精強を誇った日本の海軍艦艇は、これで本当に、壊滅しました。



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