(第19回)特攻

特攻は、色々あります。

飛行機に爆弾を積んで突入する航空特攻の他、
人間が魚雷の中に入って自分で操縦して突入する「回天」、人間がロケットエンジンを積んだ爆弾を操縦して突入する「桜花」、大和をはじめとした戦闘艦が一丸となって沖縄へ突入した水上特攻、
あまり知られていないものでは、トヨタのモーターで動くベニヤ張りのボートに爆薬を積んで突入する「震洋」、海岸の浅瀬に潜水して、棒地雷で艦底を突いて自分もろとも爆破する「咬竜」、アンパンと呼ばれた地雷を抱いて戦車に突っ込む肉弾攻撃も、命と引き換えに刺し違えるという意味では特攻と言えます。

どれもこれも、みんな壮絶で凄惨なものです。

ただし当初の航空特攻でいえば戦術というものはあって、気象調査機が先行して攻撃目標地点の天候を調査、そしてベテランパイロットによる誘導機が作戦海面付近まで誘導し、零戦に爆弾を抱いた特攻機が目的を果たせるように、護衛戦闘機の編隊が付いていました。
これが当初の航空特攻でした。

そして、レイテ湾へ突入する栗田艦隊を支援するために企図された最初の特攻は、1回だけの作戦とされていましたし、作戦立案の責任者であった海軍の大西滝治郎中将は、特攻を「統率の外道である」と自ら記しています。

しかし最初の特攻作戦の成功により、この攻撃手法は継続されるようになり、追い詰められた日本は前途ある若い命を、全機特攻ともいうべき作戦によって戦場へと送り続けました。沖縄を支援するための菊水作戦の後半では旧式の戦闘機や足の遅い爆撃機、さらには練習機まで投入されました。そうして菊水作戦では3ヵ月ほどの間に約1800機の航空機が投入されたのです。いや、それだけの方々が散華されました。ともに出撃され散華された艦爆隊や護衛の方々もいますので、非常に多くの方々が、特攻作戦により命を落とされました。

菊水作戦における特攻は少なくない戦果を挙げましたが、米軍も必死に特攻機に対するガードを固めるようになっており、特攻機の出撃はレーダーで察知されているため、敵戦闘機が迎撃態勢を敷いて待ち構えています。
その敵戦闘機群をくぐり抜けたとしても、その後方には護衛空母の上空護衛機と、巡洋艦、駆逐艦からシャワーのような対空砲火が打ち上げられて、狙うべき機動部隊本隊は更にその後ろです。

そして特攻機で出撃された方々の多くは、10代の方々もしくは大学を出て予備士官となられていた少尉達であって、訓練もそこそこに実戦、それも特攻に駆り出されていったのです。目標に突入するなど、不可能といえる領域です。

それでも実際に、敵対空砲火をくぐり抜け、敵艦船に突入成功した方々がいます。しかし、これはほとんど奇跡です。

志願だったのか、命令か、民族の誇りか、非道な作戦か、論じることが目的ではないんですが、「桜花」を描いた「ザ・コクピット」はいま、すぐにご覧ください。

このように、日本軍は特攻を出し続けました。何故でしょうか。
それしか選択肢がなかったといえばそれまでかもしれませんが、成功の可能性がほとんど無いといえる状況でも出撃を繰り返した理由は、僕にはわかりません。

もはや戦争に勝機はありませんでした。
現代の視点で考えれば、早期に戦争をやめて、日本の再建に力を尽くすべきだったと、そう思います。
指導者達の胸の内には、戦争をやめるとう選択肢がもちろんありましたが、そうなった時に国体の変更という最悪の状況を回避して、飲めるレベルの講和条件を引き出すために、局地戦で米軍に勝ってからという思惑に引きずられました。

そして日本は、まだか、まだか、これでもかと特攻を出し続け、そして出撃された方々は当然死ぬのは嫌だけど、自分の家族や愛する人を護るんだと自分の心に折り合いをつけて、本当はとんでもなく悲しい思いを胸に、笑って飛び立っていかれました。

なお、大西中将は終戦直後、特攻隊の英霊に謝罪し、生き残った若者に日本の再興を託す遺書を残して割腹自決しました。

戦後、アメリカの宣伝の力もあったのですが、生き残られた特攻隊員の方々は、同胞の日本人から「特攻崩れ」と揶揄され「無駄死に」とされ「戦犯が歩きよる」と子どもたちに指さされながら、心の傷を家族にも話すことなく
黙々と日本の再建に力を尽くされました。
個人的な話ですが僕が小学生の頃、違うクラスの担任は元特攻隊員でした。出撃数日前に終戦になった、自分の命は一度捨てておりこれは二度目の人生だ、というようなことを言ってた記憶があります。

話を終戦の直前に戻すと、
日本では本土決戦で日本人全員で戦い玉砕するという準備が進められていましたが、どのように戦争をやめるかという議論も水面下で行われており、ソ連に仲介を頼んで和平の道を探ろうという動きが活発化していました。当時大本営の中枢にいた瀬島中佐(のちに伊藤忠の会長となります)が密使としてモスクワへ派遣されたりしています。

連合国のポツダム宣言を受託する前に、ソ連に頭を下げて和平の仲介してもらう、その工作は必死に続けられましたが、ソ連はなにかと理由をつけて態度表明を先送りしました。

そして昭和20年8月、広島、長崎に原子爆弾が落とされ、日本は無条件降伏を決めます。

そんなとき突然、ソ連が国境を越えて満州に侵攻してきたのです。
和平の仲介をお願いしていた国が、虚をついて突然攻撃してきたのです。日本はとてつもなく大きな衝撃を受けます。

戦車でガラガラとやってきて撃ちまくり、爆撃機を飛ばして爆弾を落とし、歩兵師団が進出して機関銃を撃ちまくりました。

母方の祖父である展治さんは、関東軍の一員として過酷な地上戦闘に参加する事になります。







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